創立および初期の頃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 18:23 UTC 版)
「ヴァンダービルト大学」の記事における「創立および初期の頃」の解説
南北戦争の数年前、アメリカ南メソヂスト監督教会は教会の多い地域の中心部に教役者を養成するための地方大学を創立することを検討していた。ナッシュビルの司祭のホランド・マクティアによる陳情後、教会のリーダー達は1872年にナッシュビルに『セントラル大学』を創立することを投票。しかし資金不足と南北戦争による南部諸州の荒廃から大学の開校は延期になっていた。 翌年、マクティアは妻のいとこと再婚したコーネリアス・ヴァンダービルトの住むニューヨークの邸宅に滞在していた。当時ヴァンダービルトは全米一裕福であり、高齢になるにつれて慈善活動に積極的になっていった。彼は彼の母親に敬意を表し、自身の生まれ故郷であるニューヨーク州スタテン・アイランドに大学を創立する計画を立てていた。マクティアは彼に「全米の大学に通常ある学部の全てを備えた最強の大学を創立するための寄付」としてセントラル大学に50万ドルの寄付をしてくれるよう説得した。 この寄付金は最終的に100万ドル(2009年の貨幣価値で換算すると17,697,692 ドル)にまで増大し、ヴァンダービルトが2回しか行なわなかった経済的支援のうちの1回となった。彼自身は大学名に自分の名前を冠することを願っていた訳ではなかったが、マクティアおよび評議会員は『ヴァンダービルト大学』と命名する。1877年、ヴァンダービルトは自身の名を冠した大学を見ることなく亡くなった。 1875年秋、約200人の生徒が入学し、10月に開校した。ヴァンダービルトの寄付の条件としてマクティア司教は評議員長に就任。マクティアの指導者でランドルフ=メイコン大学(バージニア州)、アラバマ大学、ミシシッピ大学の学長を務めたことのあるランドン・ガーランドを学長として迎えた。ガーランドは大学の組織を形成し、それぞれの分野で著名な学者を教授として雇用したが、彼らのほとんどがマクティアに反発して大学を離れてしまった。
※この「創立および初期の頃」の解説は、「ヴァンダービルト大学」の解説の一部です。
「創立および初期の頃」を含む「ヴァンダービルト大学」の記事については、「ヴァンダービルト大学」の概要を参照ください。
- 創立および初期の頃のページへのリンク