橋本家 (子爵家)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/27 15:21 UTC 版)
橋本家 | |
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本姓 | 清和源氏桃井氏庶流 |
家祖 | 橋本直安 |
種別 |
武家 士族 華族(男爵→子爵) |
出身地 | 越前国丹生郡 |
主な根拠地 |
越前国福井藩 東京府 |
著名な人物 |
橋本左内 橋本綱常 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
橋本子爵家(はしもとししゃくけ)は、清和源氏桃井氏庶流にあたる武家・士族・華族だった日本の家。近世には越前国福井藩士の家系だったが、近代に陸軍軍医総監橋本綱常を出し、その勲功により華族の子爵家に列せられた[1]。
歴史
橋本子爵家は、清和源氏桃井義胤の9代孫で、越前国丹生郡西田中荘に住した橋本直安を祖とする[2]。
同家は元禄年間中に越前国福井藩士となり、代々医学をもって越前松平家に仕えた[1]。
幕末期の当主橋本綱紀(左内。贈正四位)は、藩主松平慶永を補佐して国事に奔走したが、安政の大獄で処刑された[1]。
その弟である橋本綱常が、綱紀の養子として家督相続。綱常も藩医として福井藩に仕え、戊辰戦争でも軍医として福井藩軍に従軍、会津征伐にも参戦した[1]。ドイツ・オーストリア留学からの帰国後[3]、明治10年に陸軍軍医監に就任。明治18年に陸軍軍医総監に昇進。また貴族院議員や枢密顧問官にも就任[1]。東京帝国大学医学部教授、日本赤十字社病院長なども歴任[3]。
日清戦争では広島大本営に勤務し、その勲功により明治28年10月31日に華族の男爵に叙せられた。日露戦争中に再び陸軍軍医総監に就任し、その勲功により明治40年9月23日に子爵に陞爵した[1][4]。
明治42年2月18日に綱常は死去し、次男の長俊が爵位と家督を相続[1][3]。長俊は陸軍士官学校を卒業した後、陸軍騎兵中尉まで昇進して参謀本部員となった陸軍将校である[1][3]。予備役入り後は実業家となった[3]。昭和前期の橋本子爵家の住居は東京市渋谷区永住町にあった[3]。
昭和16年11月17日に長俊が死去し、長男の長久が爵位と家督を相続したが、長久は昭和21年4月7日に死去し、弟の長正が爵位と家督を相続した[1]。長正は海軍主計中尉で、日本債券信用銀行役員だった[1]。
系図
- 実線は実子、点線(縦)は養子。系図は『平成新修旧華族家系大成 下巻』[5]に準拠。
橋本長綱 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
綱紀(左内) | 綱維[† 1] | 綱常[† 2] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
綱常 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
長俊 | 長勝[† 3] | 政[† 4] | 多歌[† 5] | 綱規[† 6] | 小菊[† 7] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
長久 | 長正[† 8] | 俊子[† 9] | 長紀 | 増子[† 10] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
長正 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
長茂 | 真砂子[† 11] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
長洋 | 長知 | 縁 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
系譜注
脚注
出典
参考文献
太田亮 著「国立国会図書館デジタルコレクション 橋本家 はしもとけ」、上田, 萬年、三上, 参次 監修 編『姓氏家系大辞典』 第1巻、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、5122頁。 NCID BN05000207。OCLC 673726070。全国書誌番号:47004572 。
- 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年(平成8年)。ISBN 978-4642036719。
- 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342。
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