西園寺実晴とは? わかりやすく解説

西園寺実晴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/30 02:16 UTC 版)

 
西園寺実晴
時代 江戸時代前期
生誕 慶長6年(1601年
死没 寛文13年1月11日1673年2月27日
改名 実晴→性永(法名)
別名 号:大忠院、大忠院入道
官位 従一位左大臣
主君 後水尾天皇明正天皇後光明天皇後西天皇霊元天皇
氏族 西園寺家
父母 父:西園寺公益
兄弟 実晴、大宮季光、性演
正室:徳姫細川忠隆の娘)
公満公遂公宣
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西園寺 実晴(さいおんじ さねはる)は、江戸時代前期の公卿内大臣西園寺公益の子。官位従一位左大臣。礼学・絵画を好んだ。

経歴

元和5年(1619年)に参議となって以降、内大臣・右大臣・従一位左大臣を歴任。 慶安4年(1651年)に朝廷徳川家光に対して正一位太政大臣の追贈と「大猷院」の諡号を決め、内大臣西園寺実晴を勅使として日光に派遣している。

寛文12年(1672年)に出家して大忠院入道と号し、法名は性永。

系譜

正室は細川忠興ガラシャの子の細川忠隆1604年の廃嫡後は長岡休無と号す)の長女・徳姫(1605-1663)であり、京都在住の休無から助成金が毎年西園寺家へ贈られている。また休無遺産として500石が徳姫(西園寺家)に相続され[1]、西園寺家の財政の基盤となった。

子は23代目となった公満のほかに、公遂公宣(別名公義又は随宜)。なお、末子の西園寺公宣は京都の公家生活を嫌って、長岡休無の子の長岡忠春(1622-1704年、細川内膳家祖)を頼って肥後国に移り住み菊池(現熊本県菊陽町)で死去したが、そこで生まれた娘(也須姫もしくは安姫)が京に戻って鷹司家から婿(西園寺実輔)を取り西園寺家を継いだ。

脚注

  1. ^ 綿考輯録』より

参考文献




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