廃嫡事件とは? わかりやすく解説

廃嫡事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 22:00 UTC 版)

細川忠隆」の記事における「廃嫡事件」の解説

慶長5年1600年)の徳川家康留守中に五奉行石田三成らは挙兵し三成らは忠隆の母・ガラシャに対して人質となるよう迫ったガラシャ拒絶して大坂玉造細川屋敷自決したが、忠隆正室千世は姉・豪姫指図で隣の宇喜多屋敷逃れたその頃、忠隆は忠興と共に会津遠征岐阜城攻撃途上であり、関ヶ原の戦いでは東軍属して種々の戦功挙げ内府徳川家康)からの感謝状得ている。ちなみに関ヶ原前後における忠隆の松井興長自筆状5通が八代市松井文庫現存しているが、それを見ると忠隆は自他ともに世子認められている様子うかがえる。 しかし、10月になって妻の千世大坂玉造屋敷から乗り物前田邸に逃れた。このことを咎められ、父の忠興から妻を離縁して千世の兄・前田利長のもとへ追い払うように命じられた。忠隆は千世との離縁納得せず、彼女を庇って前田家訪ねて助力求めたりしたが、ガラシャ失った忠興怒りを買い、新領地豊前国赴くことなく勘当された。さらに慶長9年1604年)には廃嫡された。千世前田利家の七女であったため、前田細川姻戚関係徳川家好ましく思っていなかった。忠興この際千世離縁して前田との関係を絶とうとしたが、忠隆が承知しなかったことが廃嫡原因であると、現在では解釈されている 。 忠隆は剃髪して長岡休無号し千世長男の熊千代伴い京都蟄居した。なお、熊千代同年のうちに夭折し、空性院即謳大童子として西園寺葬られている。 廃嫡後の休無の京都での生活は、6,000石の自領を持ち京都隠居在住していた祖父・幽斎が支えたまた、幽斎の死後遺領6,000石を整理した際に、休無に対して細川家からの隠居料として扶持米3,000石が支給されるようになり、経済的に安定した。 なお、史料では慶長10年1605年)から同14年1609年)に京都で休無に生まれた子供の徳(後に左大臣西園寺実晴室)、吉、福(後に久世家初代通式室)、早世)の4子女の母は千世であるとしている。つまり、この頃千世細川家からは離縁されたが、休無とはまだ離縁してなかったことになる。千世はのちに休無と離縁し京都離れて加賀国帰り加賀八家一つ村井家の長次に再嫁したが、その時期は慶長10年1605年ではなく幽斎死後の慶長16年1611年)頃の可能性が高い。

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廃嫡事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 17:06 UTC 版)

板垣守正」の記事における「廃嫡事件」の解説

東京帝国大学在学中文壇活動行い随筆大衆読物執筆大正14年1925年8月、『自由党異変』という戯曲執筆し同年10月26日から帝国劇場上演されることとなったが、この戯曲祖父退助侮辱する内容であったため、旧自由党員らの批判によって問題化する事となった。 『東京朝日新聞』(大正14年1925年10月20日号)によれば上演者側の舞台協会とも親しく板垣家親戚関係にある高屋福子使者となって同年10月15日麻布板垣絹子邸を訪れて戯曲の上演の了解求めた承諾得られず、さらに旧自由党縁故者である西内正基に了承求めたが、西内即座に却下し逆に第一学生の身分芝居道へ出やうとは何事だ。守正君は板垣退助伯の大切な後継者であるから劇作なんかはすぐやめさせる。従つてその脚本上演まかりならぬ」と返答した。さらに同じく自由党であった今幡西衛らと板垣家親戚自由党旧知代表して舞台協会行き上演取りやめを申込んだ。翌10月16日、守正は麻布板垣絹子邸に呼び出され西内、今幡らをはじめ親戚一同列席の上、「脚本撤回する事」や「文学から離れる事」、「自分意思だけで進んでいく自分でない事」を説かれ諫められたが、守正は「要する根本的にあなたがたと私とは思想的大いなる相違がある。自分初一念に向かつて進む」と突っぱねて、以下の覚書提出した覚書拙作自由党異変』を帝劇上演する基因し、板垣家親族並に先代縁故者より、その時期に非ざる旨を以て中止方の勧告ありたり。その代表者種々意見交換せし処、根本的に見解異にし、当家相続人としてその人にあらざるを痛感仕候間、相続人辞退を申入候。手続万端は、両氏一任仕候。尚手続完了までは自作上演堅く延期する様、小生責任を以て舞台協会交渉べく候。依つて覚書如件大正十四十月十六日 板垣守正 西内正基殿 今幡西衛殿 守正は自身廃嫡引き換えに『自由党異変の上演を選ぶこととなった。守正はこの時の心境を、 「文学携わる事を堕落と思はれてはやり切れません。私は今、何もいはぬが、実に忍ぶべからざる程の酷い言葉受けた。そして、お前に自由にする権利はないと言われたが、廃嫡となつて自由となれるのなら、それこそ願つてもない幸ひだと思ひました。今度の事は、ただ今までうつせきしてゐたいろいろの事が一度爆発しただけで、私が昔、華族全廃論を説いた時から親戚にらんでゐたのです。いはゆるあの人達は、私が政治家にでもなれば喜ぶといふのでせう。官吏にでもなつて出世しろと言はんばかりです。私には心にもないそんな虚偽の生活は出来ません。私の戯曲中でも祖父退助人間的に見ると共に、また祖父刺した相原に対して人間的な見方をした事も多分反感を買つた様です」と語っている。 これに対して板垣家親戚一人は、 「守正は学校へも行かずぶらぶらしてゐると聞いた処へ、あんな物を書いて上演までするといふ、(中略自由勝手にしかも芝居方などへ進まうとするので、板垣家といふものが、多数の人の努力と血の結晶によつて出来た家柄だからこの際言動慎んでもらひたいのです。殊に自由党異変』は史実異なつてゐるのみならず一言誰にも相談せず書いたのです」と証言している。その後板垣家親戚自由党旧知は、板垣退助旧知である野田卯太郎望月圭介龍野周一郎中野寅次郎齋藤啓次らと協議して、守正が文学道へ進むのを諦めさそうとしたが叶わなかったため、やむを得ず東京裁判所の裁許を以て正式に大正15年1926年6月12日家督を弟正貫(しょうかん)に譲らせた。守正は、東京府豊多摩郡渋谷町山内家養子となる形式を採って一旦隠居し山内守正と名乗るがすぐ家督継いだ実弟板垣正貫戸籍入って板垣復姓した上で分家の手続きを採った。

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