廃嫡事件
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慶長5年(1600年)の徳川家康の留守中に五奉行の石田三成らは挙兵し、三成らは忠隆の母・ガラシャに対して人質となるよう迫った。ガラシャは拒絶して大坂玉造の細川屋敷で自決したが、忠隆正室の千世は姉・豪姫の指図で隣の宇喜多屋敷に逃れた。 その頃、忠隆は忠興と共に会津遠征や岐阜城攻撃の途上であり、関ヶ原の戦いでは東軍に属して種々の戦功を挙げ、内府(徳川家康)からの感謝状を得ている。ちなみに、関ヶ原前後における忠隆の松井興長宛自筆状5通が八代市の松井文庫に現存しているが、それを見ると忠隆は自他ともに世子と認められている様子がうかがえる。 しかし、10月になって妻の千世が大坂玉造屋敷から乗り物で前田邸に逃れた。このことを咎められ、父の忠興から妻を離縁して千世の兄・前田利長のもとへ追い払うように命じられた。忠隆は千世との離縁に納得せず、彼女を庇って前田家を訪ねて助力を求めたりしたが、ガラシャを失った忠興の怒りを買い、新領地の豊前国に赴くことなく勘当された。さらに慶長9年(1604年)には廃嫡された。千世は前田利家の七女であったため、前田・細川の姻戚関係を徳川家は好ましく思っていなかった。忠興はこの際に千世を離縁して前田との関係を絶とうとしたが、忠隆が承知しなかったことが廃嫡の原因であると、現在では解釈されている 。 忠隆は剃髪して長岡休無と号し、千世と長男の熊千代を伴い京都で蟄居した。なお、熊千代は同年のうちに夭折し、空性院即謳大童子として西園寺に葬られている。 廃嫡後の休無の京都での生活は、6,000石の自領を持ち京都に隠居在住していた祖父・幽斎が支えた。また、幽斎の死後に遺領6,000石を整理した際に、休無に対して細川家からの隠居料として扶持米3,000石が支給されるようになり、経済的に安定した。 なお、史料では慶長10年(1605年)から同14年(1609年)に京都で休無に生まれた子供の徳(後に左大臣・西園寺実晴室)、吉、福(後に久世家初代・通式室)、万(早世)の4子女の母は千世であるとしている。つまり、この頃の千世は細川家からは離縁されたが、休無とはまだ離縁していなかったことになる。千世はのちに休無と離縁し、京都を離れて加賀国に帰り、加賀八家の一つ村井家の長次に再嫁したが、その時期は慶長10年(1605年)ではなく幽斎死後の慶長16年(1611年)頃の可能性が高い。
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廃嫡事件
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東京帝国大学在学中に文壇活動を行い、随筆、大衆読物を執筆、大正14年(1925年)8月、『自由党異変』という戯曲を執筆し、同年10月26日から帝国劇場で上演されることとなったが、この戯曲が祖父退助を侮辱する内容であったため、旧自由党員らの批判によって問題化する事となった。 『東京朝日新聞』(大正14年(1925年)10月20日号)によれば、上演者側の舞台協会とも親しく板垣家の親戚関係にある高屋福子が使者となって、同年10月15日に麻布の板垣絹子邸を訪れて同戯曲の上演の了解を求めたが承諾を得られず、さらに旧自由党の縁故者である西内正基に了承を求めたが、西内は即座に却下し、逆に「第一学生の身分で芝居道へ出やうとは何事だ。守正君は板垣退助伯の大切な後継者であるから劇作なんかはすぐやめさせる。従つてその脚本は上演まかりならぬ」と返答した。さらに同じく旧自由党員であった今幡西衛らと板垣家親戚・自由党旧知を代表して舞台協会に行き上演の取りやめを申込んだ。翌10月16日、守正は麻布の板垣絹子邸に呼び出され、西内、今幡らをはじめ親戚一同が列席の上、「脚本を撤回する事」や「文学から離れる事」、「自分の意思だけで進んでいく自分でない事」を説かれ諫められたが、守正は「要するに根本的にあなたがたと私とは思想的に大いなる相違がある。自分は初一念に向かつて進む」と突っぱねて、以下の覚書を提出した。 覚書拙作『自由党異変』を帝劇に上演するに基因し、板垣家親族並に先代の縁故者より、その時期に非ざる旨を以て中止方の勧告ありたり。その代表者と種々意見交換せし処、根本的に見解を異にし、当家相続人としてその人にあらざるを痛感仕候間、相続人の辞退を申入候。手続万端は、両氏に一任仕候。尚手続完了までは自作上演は堅く延期する様、小生、責任を以て舞台協会に交渉すべく候。依つて覚書如件。 大正十四年十月十六日 板垣守正 西内正基殿 今幡西衛殿 守正は自身の廃嫡と引き換えに『自由党異変』の上演を選ぶこととなった。守正はこの時の心境を、 「文学に携わる事を堕落と思はれてはやり切れません。私は今、何もいはぬが、実に忍ぶべからざる程の酷い言葉も受けた。そして、お前には自由にする権利はないと言われたが、廃嫡となつて自由となれるのなら、それこそ願つてもない幸ひだと思ひました。今度の事は、ただ今までうつせきしてゐたいろいろの事が一度に爆発しただけで、私が昔、華族全廃論を説いた時から親戚はにらんでゐたのです。いはゆるあの人達は、私が政治家にでもなれば喜ぶといふのでせう。官吏にでもなつて出世しろと言はんばかりです。私には心にもないそんな虚偽の生活は出来ません。私の戯曲中でも、祖父退助を人間的に見ると共に、また祖父を刺した相原に対しても人間的な見方をした事も多分反感を買つた様です」と語っている。 これに対して板垣家の親戚の一人は、 「守正は学校へも行かずぶらぶらしてゐると聞いた処へ、あんな物を書いて上演までするといふ、(中略)自由勝手にしかも芝居の方などへ進まうとするので、板垣家といふものが、多数の人の努力と血の結晶によつて出来た家柄だからこの際、言動を慎んでもらひたいのです。殊に『自由党異変』は史実と異なつてゐるのみならず、一言も誰にも相談せずに書いたのです」と証言している。その後、板垣家親戚・自由党旧知は、板垣退助の旧知である野田卯太郎、望月圭介、龍野周一郎、中野寅次郎、齋藤啓次らと協議して、守正が文学道へ進むのを諦めさそうとしたが叶わなかったため、やむを得ず東京裁判所の裁許を以て、正式に大正15年(1926年)6月12日に家督を弟正貫(しょうかん)に譲らせた。守正は、東京府豊多摩郡渋谷町の山内家の養子となる形式を採って一旦隠居し、山内守正と名乗るがすぐ家督を継いだ実弟・板垣正貫の戸籍に入って板垣に復姓した上で分家の手続きを採った。
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