三好実休の重臣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:26 UTC 版)
「三好千満(実休)内者」と呼ばれる篠原氏の筆頭格であり、天文22年(1553年)、三好実休が阿波国守護・細川持隆を殺害し下剋上するとこれに従い、実休の指揮下にあって天文23年(1554年)11月から弘治元年(1555年)2月に播磨国へ、永禄元年(1558年)8月から12月まで摂津・山城へ、永禄年中に讃岐国の香川之景を攻めるなど、各地を転戦した。 翌永禄2年(1559年)に蓮如の孫にあたる摂津富田の教行寺兼詮(実誓)の娘を室とする。 永禄4年(1561年)7月に始まる対畠山高政・根来寺戦では実休に従って和泉国に出陣し、翌永禄5年(1562年)3月の久米田の戦いにおいて先陣を任され勇戦するが、手薄となった本陣を襲われ主君・実休を失う。長房は兵をまとめ戦場から退却し、実休の兄・三好長慶の指揮のもと同年5月の教興寺の戦いで高政を破った。久米田の戦いの後、長房は剃髪し岫雲斎怒朴と号した。
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