三好家勢力下の武将
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 08:00 UTC 版)
弘治2年(1556年)、隠居した武田信豊が現若狭守護である子の武田義統と対立し始めると、昌経は隠居した信豊に味方し現守護に敵対する。信豊方が義統に大敗戦し近江国に下った後も昌経は、隣国丹波の松永長頼の援軍を得て、武田義統に反抗を続ける。昌経は三好長慶政権勢力下の武将となり、朝倉・武田連合軍と争いを続けた。 しかし、永禄4年(1561年)6月19日に越前国の朝倉義景の援軍を得た武田義統の軍勢と、松永逸見軍は戦ったが敗れ、居城である砕導山(さいちやま)城を去る。同年、武田信豊・義統親子は和睦する。 永禄8年(1565年)、丹波守護代内藤氏(松永長頼)の大規模な援軍により再び高浜に入り武田方となっていた城を攻略、さらに別に高浜城を築き本城とする。翌永禄9年(1566年)6月、再び水軍を編成して小浜の武田義統を攻めたが敗北する。反対に高浜城は武田氏のものとなり義統が一時入城した。 永禄10年(1567年)に武田義統が死去し、その子・元明が朝倉氏により一乗谷へと移送・軟禁されると、高浜に再び攻め込み大飯郡西部の平定に成功する。
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