三好家内紛と信貴山城の戦い
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「篠原長房」の記事における「三好家内紛と信貴山城の戦い」の解説
実休の死後、阿波の国主は長男であった三好長治が継いだ。しかし長治は当時8歳であったため、長房は弟で木津城主・篠原自遁、板西城主・赤沢宗伝らと共に長治を補佐した。永禄7年(1564年)12月、長慶の喪を知って上洛し、三好長逸・松永久秀らと後事を計って帰国する。 その後、畿内の三好宗家に内訌が起こると、永禄9年(1566年)6月に足利義栄を擁立し三好長治・細川真之(細川持隆の子、長治の異父兄)を奉じて四国勢を動員し畿内に上陸した。長房は三好一門の有力者・三好三人衆と協調路線をとり、松永久秀と敵対、同年9月には、松永方の瓦林三河守より摂津越水城を奪い、ここを拠点として大和国ほか各地に転戦した。 永禄11年(1568年)2月には14代将軍・足利義栄の将軍就任の祝賀会と考えられる大宴会に出席しており、三人衆と共に松永方の細川藤賢が守る大和信貴山城を落すなど(信貴山城の戦い)、宗家当主・三好義継の離反があったものの久秀との戦いを優勢に進めている。 この時期の長房は、『フロイス日本史』に「この頃、彼ら(三好三人衆)以上に勢力を有し、彼らを管轄せんばかりであったのは篠原殿で、彼は阿波国において絶対的(権力を有する)執政であった」と記されるほどであった。阿波・讃岐両国をよくまとめて長慶の死後退勢に向かう三好氏を支えたといえる。
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