三好家内紛と信貴山城の戦いとは? わかりやすく解説

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三好家内紛と信貴山城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:26 UTC 版)

篠原長房」の記事における「三好家内紛と信貴山城の戦い」の解説

実休の死後阿波の国主は長男であった三好長治継いだ。しかし長治当時8歳であったため、長房は弟で木津城主・篠原自遁板西城主・赤沢宗伝と共に長治補佐した永禄7年1564年12月長慶の喪を知って上洛し、三好長逸松永久秀らと後事計って帰国するその後畿内三好宗家内訌が起こると、永禄9年1566年6月足利義栄擁立し三好長治細川真之細川持隆の子長治異父兄)を奉じて四国勢動員し畿内上陸した。長房は三好一門の有力者三好三人衆協調路線をとり、松永久秀敵対同年9月には、松永方の瓦三河守より摂津越水城奪い、ここを拠点として大和国ほか各地転戦した永禄11年1568年2月には14代将軍・足利義栄の将軍就任祝賀会考えられる宴会出席しており、三人衆と共に松永方の細川藤賢が守る大和信貴山城落すなど(信貴山城の戦い)、宗家当主三好義継離反があったものの久秀との戦い優勢に進めている。 この時期の長房は、『フロイス日本史』に「この頃、彼ら(三好三人衆以上に勢力有し、彼らを管轄んばかりであったのは篠原殿で、彼は阿波国において絶対的権力有する執政であった」と記されるほどであった阿波讃岐両国をよくまとめて長慶死後退勢に向かう三好氏支えたといえる

※この「三好家内紛と信貴山城の戦い」の解説は、「篠原長房」の解説の一部です。
「三好家内紛と信貴山城の戦い」を含む「篠原長房」の記事については、「篠原長房」の概要を参照ください。

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