PZL (航空機メーカー)とは? わかりやすく解説

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PZL (航空機メーカー)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/11 02:40 UTC 版)

PZLポーランド語:Państwowe Zakłady Lotnicze:国立航空機製作所、等と訳される)は、戦間期におけるポーランドの主要航空機メーカーである。ワルシャワに拠点を置き、1928年から1939年まで活動した。

その後、1950年代後半になって、このPZLという略称は、同社の伝統を受け継ぐ、ポーランド国営のいくつかの航空機メーカーによるブランド名、および航空機名称の一部として使用されるようになった。それら航空機メーカーは、PZL航空機およびエンジン工業連合(Zjednoczenie Przemysłu Lotniczego i Silnikowego PZL)としてまとまっていた。

1989年に共産政権が崩壊した後、これらメーカーは独立したが、PZLの名称は引き続きそれぞれのメーカーで使われた。うち、たとえばPZLミェレッツ(en)では、PZLは「ポーランド航空機製作所」(Polskie Zakłady Lotnicze)の略であるとしている。

PZL(1928年-1939年)

PZL(Państwowe Zakłady Lotnicze)は、それ以前にあったCWL(Centralne Warsztaty Lotnicze:中央航空機研究所)を基に、1928年、国営企業としてワルシャワに設立された[1]

当初、同社ではフランスの戦闘機、ウィボー70(en:Wibault 7)のライセンス生産が行われたが、その後は自社設計の機体を専門に生産した。

1930年代に入ると、ズィグムント・プワフスキの設計による、高翼・全金属製の近代的な一連の戦闘機シリーズが生み出された[2]。PZL P.1、P.6、P.7P.11である[2]。特に最後の2機種は、1933年以降、ポーランド空軍の主力戦闘機として使用された。

シリーズ最後の機体であるPZL P.24はプワフスキの航空機事故による死去の後に開発されたもので、4カ国に輸出された。

また、PZLは軽爆撃機PZL.23カラシュ(Karaś)、近代的な中型爆撃機PZL.37ウォシュ(Łoś)の量産をおこなったほか、いくつかのスポーツ機(PZL.5、PZL.19、PZL.26)、連絡機(PZL Ł.2)なども若干生産。旅客機の開発・試作も行った。

1930年代後半、PZLは、戦闘機PZL.50ヤスチョンプ(Jastrząb)、軽爆撃機PZL.46スム(Sum)、旅客機PZL.44ヴィヘル(Wicher)など、それまでよりもさらに近代的な戦闘機、爆撃機、旅客機の開発・試作を行った。しかし第二次世界大戦の勃発により、これらの機体は生産されることなく終わった。

PZLは、戦前のポーランドにおいて、最大の航空機メーカーだった。1934年時点で、主工場はワルシャワのオケンチェ地区にあるPZL WP-1(Wytwórnia Płatowców 1:第一機体工場)だった。さらにPZL WP-2(機体第二工場)が1938年から1939年にかけ、ポーランド南東部のミェレッツに建設されたが、第二次世界大戦が始まった時、この工場では生産が始められたばかりという状態だった[1]

エンジン生産部門は、PZL WS-1(Wytwórnia Silników 1:第一エンジン工場)がやはりワルシャワのオケンチェ地区にあり、主にイギリスからのライセンス品であるブリストル社製エンジン、ブリストル ペガサスやブリストル マーキュリーなどを生産した。この第一エンジン工場は、旧称を「ポーランド・スコダ製作所(Polskie Zakłady Skody)」といい、チェコシュコダ社の現地法人だったが、1936年に国営化され改称されたものだった。

1937年から1939年、PZL WS-2(エンジン第二工場)がジェシュフに建設された[1]

戦後の状況

第二次世界大戦中に、ポーランドの航空産業は完全に破壊され、PZL各工場も生産停止などに陥った[2]

戦後、共産党政府の元に再建された航空機産業は、新たにWSK (Wytwórnia Sprzętu Komunikacyjnego:交通機器工場)と命名され、PZLの名は一時消滅した[2]。さらにソビエト連邦の影響下での中央計画経済により、およそ10年にわたって自国設計の機体が生産されることはなかった。

しかし、1950年代後半、スターリン時代の終焉とほぼ時を同じくして、PZLの名は復活することになる[2]1956年、複数の国営工場により、ZPLiS PZL( Zjednoczenie Przemysłu Lotniczego i Silnikowego PZL:PZL航空機およびエンジン工業連合)が結成され、新規開発の機体にPZLのブランド名を使用し始めたのである[2]1973年からは、若干の経済的自由も手に入れた[3]。ただし、長く独自開発を禁じられていたこともあって、開発力はグライダーや小型の農業機を除けば、戦前ほどには戻らなかった[2]

この連合、ZPLiS PZLは、19の工場と1つの研究所、およびペゼテル貿易センター(CHZ Pezetel、ポーランド航空産業の貿易業務を一手に引き受ける機関で、『ペゼテル』はPZLの音を表したもの)によって形成されていた[3]。1970年代には、いくつかのWSKの工場も、その名前にPZLの略称を冠するようになった。

1989年、共産党政権が倒れた後、すべての工場は独立した企業となったが、それぞれがなおもPZLの名を使い続けることとなった。

現在、戦前までPZLの中心であったかつての第一工場はPZLヴァルシャヴァ=オケンチェ(PZL Warszawa-Okęcie、ヴァルシャヴァはワルシャワの現地語表記)となった[2]。また、旧第二工場はPZLミェレッツとして存在するが、2007年に買収されてからはシコルスキー・エアクラフトの傘下となっている[2]SZDからPZL=ビエルスコ(PZL-Bielsko)と名前を変えたグライダー部門は、グライダー専門メーカーのアルスターPZLグライダー(Allstar PZL Glider)として事業を継続しており、多くの国で利用されている。

略歴

  • 1928年 - ポーランド政府によって、航空機の設計と制作を行う国立航空機製作所(Państwowe Zakłady Lotnicze、PZLと略される)がワルシャワ市のオケンチェ地区(Okęciu)に創設される。
  • 1934年 - 各所に存在した工場をオケンチェに集約する。オケンチェ工場は機体製造工場(Wytwórnia Płatowców、WP)と呼ばれるようになる。
  • 1936年 - ポーランド政府が、オケンチェにあるシュコダ社の子会社であったポーランド・シュコダ製作所(Polskie Zakłady Skody)を買収し国立航空機製作所に併合。エンジン製造工場(Wytwórnia Silników、WS)の名称にする。
  • 1937年
    • 春 - ポトカルパチェ県ジェシュフ市において第2エンジン製造工場(Wytwórnia Silników nr 2、WS-2)の建設工事が開始される。エンジン製造工場はWS-1となる。
    • 7月 - WS-2の主な建物が完成する。
    • 9月1日 - ポトカルパチェ県ミェレッツ市(Mielec)に第2機体製造工場(Wytwórnia Płatowców nr 2、WP-2)の建設が開始される。機体製造工場はWP-1となる。
  • 1938年 - WS-2に附属する寮が完成する。
  • 1939年
    • 3月 - WP-2が生産を開始する。
    • 9月13日 - WP-2がドイツ軍の手に落ちる。He 111の尾翼製造やJu 52の修理の役目が与えられる。
  • 第二次世界大戦中 - ドイツ軍の侵略に伴い、全工場が航空機エンジン製造工場(Flugmotorenwerke)へと改称する。WP-1はブランデンブルク工場ワルシャワ=パルク分工場(Brandenburgische Werke- Warszawa-Paluch)となる。ドイツ空軍のもとで航空機やエンジンの改修を行う。
  • 1944年
    • 7月 - WP-2からドイツ軍が機械や設備を持って退却する。
    • 8月6日 - WP-2がソビエト軍の影響下に入る。
  • 1945年7月22日 - WP-2がポーランド政府の支配下に戻る。
  • 1945年〜 - ドイツ軍の撤退に伴い工場が破壊されるも、工場の技術者らによりルブリンで実験航空機構(Lotnicze Warsztaty Doświadczalne、LWD)が設立される。LWDは数カ月してウッチに移る。旧WP-1は中央航空機研究所(Centralne Studium Samolotów、CSS)、旧WP-2は国立航空機製作所第1工場(Państwowe Zakłady Lotnicze (PZL) - Zakład nr 1)となる。
  • 1946年 - CSSが航空産業連合に加入。
  • 1949年 - CSSが第4交通機器工場(Wytwórnia Sprzętu Komunikacyjnego – zakład nr 4、通称WSK-4オケンチェ)に、国立航空機製作所第1工場が第1交通機器工場(Wytwórnia Sprzętu Komunikacyjnego – zakład nr 1、通称WSK-1ミェレッツ)に改称される。
  • 1956年 - WSK-4オケンチェがオケンチェ交通機器工場(WSK-Okęcie)、WSK-1ミェレッツがミェレッツ交通機器工場(WSK-Mielec)と呼ばれるようになる。ブランド名はPZLが復活する。
  • 1970年 - ミェレッツ交通機器工場がデルタ=ミェレッツ交通機器工場(WSK Delta-Mielec)に改称される。
  • 1975年 - デルタ=ミェレッツ交通機器工場がPZLミェレッツ交通機器工場(Wytwórnia Sprzętu Komunikacyjnego "PZL-Mielec"、WSK "PZL-Mielec")に改称される。
  • 1989年 - オケンチェ交通機器工場がPZLヴァルシャヴァ=オケンチェ(PZL "Warszawa-Okęcie")に改称される。
  • 1995年 - PZLヴァルシャヴァ=オケンチェが民営化され、PZLヴァルシャヴァ=オケンチェ合資会社(PZL "Warszawa-Okęcie" Spółka Akcyjna)に改称される。
  • 1998年10月19日 - PZLミェレッツ交通機器工場がミェレッツ・ポーランド航空機製作所(Polskie Zakłady Lotnicze Mielec Sp. z o.o.、PZLミェレッツ)に改称される。
  • 2001年10月16日 - PZLヴァルシャヴァ=オケンチェ合資会社がEADS CASA社に買収され、子会社となる[2]
  • 2002年春 - PZLヴァルシャヴァ=オケンチェ合資会社が、EADS・PZLヴァルシャヴァ=オケンチェ合資会社(EADS PZL "Warszawa-Okęcie" Spółka Akcyjna)となる。
  • 2007年3月16日 - PZLミェレッツがシコースキー・エアクラフトの買収を受け民営化され、子会社となる[2]
  • 2011年 - EADS・PZLヴァルシャヴァ=オケンチェ合資会社が社名をPZLヴァルシャヴァ=オケンチェに戻す。

参考資料

  1. ^ a b c A. Glass (op.cit.), p. 26-31
  2. ^ a b c d e f g h i j k 徳永克彦「徳永克彦の空撮主義 第4回 ポーランド曳航の「若鷹」オリク」『JWINGS』第157巻、イカロス出版、2011年9月、68-71頁。 
  3. ^ a b Babiejczuk, J. and Grzegorzewski, J. (op.cit.), p. 11, 16
  • (ポーランド語) Glass, Andrzej. Polskie konstrukcje lotnicze 1893-1939 ("Polish aviation designs 1893-1939"). Warsaw: WKiŁ, 1977 (no ISBN).
  • (ポーランド語) Babiejczuk, Janusz and Grzegorzewski, Jerzy. Polski Przemysł Lotniczy 1945-1973 (Polish aviation industry 1945-197). Warsaw: Wydawnictwo MON, 1974. No ISBN.

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