丹羽長秀に仕える
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/18 15:40 UTC 版)
初名を政之助といい、信濃村上氏が没落した後、12歳のとき丹羽長秀の客分に招かれた。長秀に供奉し、初陣で武勇を示したので寵愛されたと丹羽氏の家伝史料にある。 天正3年(1575年)3月、織田信長が公家・門跡領へ徳政令を発布し、丹羽長秀は代官としてその施行にあたった。「青蓮院文書」には、この際に対応した長秀の吏僚の一人として村上小六郎の名が見える。 天正6年(1578年)4月17日、別所重棟にあて、ともに長秀の家臣である長束承(新三郎)と村上頼家(二郎右衛門尉)が連名で書状を送っている。頼家の花押は頼勝のそれと酷似しており、同一人物と見られる。 天正10年(1582年)頃、長秀は近江海津城(知内浜城)を修復し、頼勝に守らせた。この地域はもと津田信澄の所領であり、本能寺の変以降長秀の支配するところとなっていた。
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