大島光政とは? わかりやすく解説

大島光政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/14 08:40 UTC 版)

大島 光政(おおしま みつまさ、永禄6年(1563年) - 元和8年8月12日1622年9月17日))は美濃国出身の戦国武将。通称、茂兵衛、光吉。川辺大島氏の初代であり、加治田大島氏の祖。大島光義の二男。母は武市通春の娘。妻は三澤氏。子に大島光盛、大島義唯、大島義當、大島義益[1]

生涯

美濃国加茂郡加治田村に移住し、斎藤利治に仕え、各合戦で戦功。利治が本能寺の変で主君の織田信忠と討死後、斎藤利堯に仕える。

加治田・兼山合戦後、丹羽長秀に仕え、賤ヶ岳の戦いから功を上げる。

丹羽長秀死後は豊臣秀吉に属し馬廻りや使番として出世した。文禄4年(1595年)、美濃国池田郡で1000石を与えられた。

関ヶ原の戦いでは徳川家に味方する。1604年、父の遺領を兄弟で分け与え、自身は摂津国豊島郡、美濃国加茂郡・池田郡・武儀郡内の4710石を得る。大坂の陣にも従軍。

その後、徳川家旗本寄合席となり、元和8年(1622年)に60歳で没[2]。法名は日勇。

人物

関連書籍

大島行光

  • 大島光政が所持していたと言われている名刀がある[3]

脚注

  1. ^ a b c 「新訂寛政重修諸家譜2」
  2. ^ 「大島氏系図」『富加町史』 下巻 通史編、富加町、1980年、271頁。 
  3. ^ 「大島行光 長一尺一寸分半 代金百枚 加藤和泉守殿 昔大島茂兵衛殿所持、表峰裏二筋樋梵字、朱銘判光室」




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「大島光政」の関連用語

大島光政のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



大島光政のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの大島光政 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS