クレメンス6世 (ローマ教皇)とは? わかりやすく解説

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クレメンス6世 (ローマ教皇)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/19 15:21 UTC 版)

クレメンス6世
第198代 ローマ教皇
教皇就任 1342年5月7日
教皇離任 1352年12月6日
先代 ベネディクトゥス12世
次代 インノケンティウス6世
司教叙階 1329年
その他 1338年: 司祭枢機卿
個人情報
出生 1291年
フランス王国リムーザンロジエ=デグルトン英語版
死去 1352年12月6日
教皇領 アヴィニョン
紋章
その他のクレメンス
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クレメンス6世Clemens VI1291年 - 1352年12月6日)は、アヴィニョン捕囚の時期のローマ教皇(在位:1342年 - 1352年)。フランス王国出身で、本名はピエール・ロジェPierre Roger[1]

生涯

教皇選出以前

1291年、フランス王国のシャトー・ド・モーモン(Château de Maumont、現コレーズ県ロジエ=デグルトン英語版にあるシャトー)で生まれた[1]。10歳のときにベネディクト会ラ・シェーズ=デュー修道院英語版に入った後、パリ大学を卒業して教授になった[1]ピエール・ゴーヴァン・ド・モルトマールフランス語版枢機卿から教皇ヨハネス22世に紹介されると、ニームにあるサン=ボーディル(Saint-Baudil)小修道院の院長、次いでフェカン修道院英語版の院長に任命され、1328年にアラス司教英語版、1329年にサンス大司教英語版に昇進、1330年にルーアン大司教英語版に転じた[1]。1338年、ベネディクトゥス12世によりサンティ・ネレオ・エ・アキレオ聖堂英語版を名義教会として司祭枢機卿に任命された[1][2]

教皇選出

ベネディクトゥス12世の死去を受けてアヴィニョンコンクラーヴェが行われ、1342年5月7日に17人の枢機卿により全会一致で教皇に選出された[2]。フランス王フィリップ6世は息子ジャンを使者としてコンクラーヴェに派遣し、ロジェが選出されるよう仕向けようとしたが、どちらにせよ枢機卿たちはベネディクトゥス12世の強硬さを嫌い、より寛大なロジェを選出する意向であり、フィリップ6世の介入は実際には不必要だったとされる[2]。ロジェは教皇として寛容であるべきと考えて、教皇名に寛容を意味する「クレメンス」を名乗った[2]。5月19日、アヴィニョンで戴冠した[2]

教皇として

即位後の1343年、ローマ市民代表のニコラ・ディ・リエンツォ(通称コーラ)がアヴィニョンを訪れ、教皇のローマ帰還を熱心に訴える。教皇はコーラの訴えに感銘を受け、第2回聖年1350年)を実施する旨を定め、コーラに祝福を与えた。コーラはローマに帰った後、1347年に護民官となってコロンナ家などの貴族層を抑え、市の実権を握る(コーラ革命とも呼ばれる)。アヴィニョンにいた人文主義者ペトラルカも多大な期待をかけていたが、コーラは次第に尊大な振る舞いに出たため、教皇庁からも批判を受け、まもなく失脚、後に捕らえられてアヴィニョンに移される(コーラは次の教皇インノケンティウス6世のときに再びローマの実権を握るがまたも失脚、最後は処刑された)。

1346年ヨハネス22世の代から対立している神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世を廃位、カール4世を皇帝に擁立した。1350年の聖年には多くの巡礼者がローマを訪れたが、教皇がローマに赴くことはなかった。アヴィニョン捕囚が終わる時期は、1370年にクレメンス6世と同名の甥がグレゴリウス11世に選出され、ローマへ帰還した1377年である。

教会の組織機構を整備させた一方、1348年にナポリ女王プロヴァンス女伯ジョヴァンナからアヴィニョン市を買い取り[注釈 1]、前教皇ベネディクトゥス12世が始めた教皇庁宮殿の建設などを行ったために財政状況は悪化したという(なお、アヴィニョンはフランス革命まで教皇領として続く)。教皇庁建設には各地から画家らが集まり、国際ゴシック様式の普及に一役買った。

同1348年1月頃からアヴィニョンがペスト禍にさらされており、この間にクレメンス6世は新しい墓地のための土地を買い入れ、瀕死の病人全てに赦免を与え、病気の原因を探るために医師による死体解剖を許可し、ユダヤ人迫害を弾劾する勅書を出した。しかしなすすべなく、同年5月にはエトワール=シュル=ローヌ英語版(現ドローム県、アヴィニョンより北北東)に避難した[4]

その豪奢な生活でも知られており、「どんな君主も、金遣いの派手さでかなう者はなく、気前のよさでも匹敵する者はいない」、白テンの毛皮を1080枚も所持し、「ギャンブルや競馬」に打ち興じ、「教皇の宮殿は……時間を問わず、つねに女性を歓迎」していたという[5]

注釈

  1. ^ 代金は8万フローリン金貨。かなりの安値とされるが、その授与さえなされなかったという噂がその後何年も続いた。また、これに先立つ1348年3月、彼はハンガリー王子アンドラーシュ暗殺に関わる裁判でジョヴァンナに無罪判決を下している[3]

出典

  1. ^ a b c d e Weber, Nicholas Aloysius (1908). “Pope Clement VI” . In Herbermann, Charles (ed.). Catholic Encyclopedia (英語). Vol. 4. New York: Robert Appleton Company. pp. 23–24.
  2. ^ a b c d e McBrien, Richard P. (1997). Lives of the Popes: The Pontiffs from St. Peter to John Paul II (英語) (1st ed.). New York: HarperCollins. pp. 240–242. ISBN 0-06-065304-3.
  3. ^ ケリー 2008, p. 215.
  4. ^ ケリー 2008, p. 216.
  5. ^ ケリー 2008, p. 197.

参考文献

  • ジョン・ケリー 著、野中邦子 訳『黒死病 ペストの中世史』中央公論新社、2008年。 ISBN 978-4-12-003988-1 

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