テオドルス1世_(ローマ教皇)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > テオドルス1世_(ローマ教皇)の意味・解説 

テオドルス1世 (ローマ教皇)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/18 08:39 UTC 版)

テオドルス1世
第73代 ローマ教皇
教皇就任 642年11月24日
教皇離任 649年5月14日
先代 ヨハネス4世
次代 マルティヌス1世
個人情報
出生 不明
東ローマ帝国パレスチナ
死去 649年5月14日
埋葬地 サン・ピエトロ大聖堂
テンプレートを表示

テオドルス1世ラテン語: Theodorus I, ギリシア語: Θεόδωρος Α΄、? - 649年5月14日)は、642年11月24日から649年5月14日まで在位したローマ教皇ギリシア人と考えられているが、生まれたのはパレスチナであり、司教の子として生まれた。

642年11月24日にヨハネス4世の後を継いでローマ教皇となった。彼の選出は東ローマ帝国ラヴェンナ総督によって支持されたが、これはおそらくテオドルスがギリシャ人であったためと思われる。

在位中、単意論と戦い続ける。東ローマ皇帝コンスタンス2世ヘラクレイオスが出した、単意論の主要文献となっていた「エクテシス(信仰宣言)」を撤回するよう迫ったが、皇帝は応じなかった。西方では単意論への反対が強まっていった。ピロスは645年に単意論をいったん撤回したが、すぐに単意論の支持に帰ったため、テオドルスから648年破門された。テオドルスの単意論への厳しい態度は皇帝を初めとする単意論支持者から激しい反発を買い、東ローマ帝国から出されたエクテシスに続く文書であるテュポス(Typus)における非難が向けられたが、テオドルス自身が破門されたと看做しえるかどうかは確かではない。

アンティオキア総主教パヴロスをコンスタンディヌーポリ総主教と認めることを拒絶したが、これは前任の総主教ピロスが罷免されたことが教会法に違反していたためであった。

テオドルス1世は649年に「エクテシス」を非難するためのラテラン公会議を開催することを計画したが、その召集の前に死去してしまい、後任のマルティヌス1世が実現した。テオドルス1世はサン・ピエトロ大聖堂に葬られている。

参考文献

  • 『キリスト教大辞典』(321頁、教文館、昭和48年改訂新版第二版)

出典・外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「テオドルス1世_(ローマ教皇)」の関連用語

テオドルス1世_(ローマ教皇)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



テオドルス1世_(ローマ教皇)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのテオドルス1世 (ローマ教皇) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS