クレメンス8世 (対立教皇)とは? わかりやすく解説

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クレメンス8世 (対立教皇)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/15 10:01 UTC 版)

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クレメンス8世
対立教皇
教皇就任 1423年6月10日
教皇離任 1429年7月26日
先代 ベネディクトゥス13世
次代 ベネディクトゥス14世
個人情報
本名 ジル・サンチェス・ムニョス・イ・カルボン
(Gil Sánchez Muñoz i Carbón)
出生 1369年?
アラゴン連合王国テルエル
死去 1446年12月28日
アラゴン連合王国、パルマ・デ・マヨルカ
その他のクレメンス
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パルマ・デ・マヨルカ大聖堂にあるクレメンス8世の墓

クレメンス8世(Clemens VIII, 1369年? - 1446年12月28日)は、第206代ローマ教皇であるマルティヌス5世対立教皇である(在位:1423年6月10日 - 1429年7月26日)。本名はジル・サンチェス・ムニョス・イ・カルボン(Gil Sánchez Muñoz i Carbón)。

テルエルで生まれた。1423年に対立教皇だったベネディクトゥス13世が死去すると、3人の枢機卿によってアラゴンペニスコラで対立教皇として選出され、教会大分裂時代の初代対立教皇であるクレメンス7世にちなんで、クレメンス8世を称した。しかし内部は弱体で、枢機卿の1人が別の対立教皇ベネディクトゥス14世を勝手に選出したり、アラゴン王アルフォンソ5世が教皇マルティヌス5世への圧力としてクレメンス8世を利用しておきながら、教皇と和解すると1426年にクレメンス8世へ退位を勧告する有様で、実態は虚構に過ぎなかった[1][2]

1429年7月26日にマルティヌス5世へ忠誠を誓い退位、同年8月にマルティヌス5世よりパルマ・デ・マヨルカ司教に任命され、以後は歴代のローマ教皇に従った。また、アルフォンソ5世の側近で交渉を取り仕切ったアルフォンソ・デ・ボルハ(後のカリストゥス3世)はバレンシア司教に任命された。1446年12月28日に死去[1][3]

脚注

  1. ^ a b 新カトリック大事典編纂委員会、P659。
  2. ^ クルーラス、P20 - P21、スチュアート、P185、バンソン、P134 - P135。
  3. ^ クルーラス、P21 - P22、バンソン、P135。

参考文献

  • イヴァン・クルーラス著、大久保昭男訳『ボルジア家』河出書房新社、1989年。
  • 学校法人 上智学院 新カトリック大事典編纂委員会編『新カトリック大事典 第2巻』研究社、1998年。
  • P.G.マックスウェル・スチュアート著、月森左知・菅沼裕乃訳、高橋正男監修『ローマ教皇歴代誌』創元社、1999年。
  • マシュー・バンソン著、長崎恵子・長崎麻子訳『ローマ教皇事典』三交社、2000年。



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