ローマ帝国~東ローマ(ビザンツ)帝国
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「アウトクラトール」の記事における「ローマ帝国~東ローマ(ビザンツ)帝国」の解説
時代が下ると 共和政ローマの勃興とともに [stratēgos] autokratōrはギリシアの歴史家たちによって異なるローマ人の用語に翻訳されて利用された:ポリュビオスは独裁官の称号をこの用語を翻訳して用い、前48年のエフェソス出土のカエサル顕彰碑文に登場し、 プルタルコスは 凱旋称号(英語版) インペラトルの訳語として彼の時代の意味でこの用語を用いた。Autokratōrはローマ帝国の時代を通じて後者(インペラトル)の公式の訳語として定着した。ローマ帝国ではインペラトル/imperator は ローマ皇帝たちの称号の一部だった。称号は、629年に皇帝 ヘラクレイオス によりギリシア語の称号が採用されるまでラテン語からのギリシア語訳語として使われ続けた。 東ローマ帝国では儀式で利用される古風な形式の称号として残り、(早ければ9世紀かそれ以降)に basileus [kai] autokratōr (βασιλεύς [καὶ] αὐτοκράτωρという形式で再生し、通常は "皇帝と支配者/emperor and autocrat)として訳され、共同皇帝(συμβασιλεῖς, symbasileis)がいる場合には、実権を有する優越している方の皇帝を示した。 パレオロゴス王朝では、この用語は帝位継承者に指定された者を含むようになった。称号は912年以降ビザンツ貨幣(英語版)の銘文に見られるようになり、11世紀以降は皇帝の 金印勅書や多くの写本で見られるようになった。stratēgos autokratōrという用語の方は全ビザンツ時代を通じて使われ続けた。この称号は6世紀に特に流行し(将軍ベリサリウスなど)、 10-11世紀に上位の軍事司令官を表すものとして再度現れた。 このように、例えば バシレイオス2世 は ダヴィド・アリアニテス(英語版)をテマ=ブルガリア(英語版)のstratēgos autokratōrとして任命して、北部ブルガリアにいる他の地域的な stratēgoiを越える権力を持つことを明白にしたのだった。
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