10 - 11世紀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 09:26 UTC 版)
中国に接する朝鮮半島では中国文化の影響を常に受け、強い文化的、技術的な影響を受けてきた。陶磁器の分野もその例外ではなく青磁もまた同様であり、中国餞州窯(伝世では越州窯だが造形は餞州窯の物に類似する)青磁の技術が伝来し生産が始められた。高麗青磁の最盛期は朝鮮半島では12世紀とされ、10 - 11世紀はその前段階にあたる。高麗の焼き物には白磁や黒磁もあるが、主要な製品は青磁であった。青磁の胎土は焼成前は褐色を呈しており、これを素焼きすると灰色がかった色に変化する。これに鉄分を含んだ釉を掛けて還元炎焼成(窯内に酸素を十分に供給せずに焼く)すると青磁になり、釉薬中のチタニウム、マンガン等の微量元素の含有割合によって、緑に近い釉色から「雨過天晴」と称されるような澄んだ青色などさまざまな色に発色する。 朝鮮半島においては、三国時代から統一新羅時代の焼き物は素焼きの土器である(日本と同様韓国では無釉のものを「土器」と呼び、「陶器」とは呼ばない慣例)。統一新羅時代後期(9世紀)になると、墳墓から中国製の越州窯青磁や唐三彩の器が骨壺として出土する例があり、こうした中国陶磁の影響を受けて高麗においても青磁の焼造が始まった。その時期は9世紀とする説もあるが、一般には高麗王朝成立後の10世紀がその初源とされており、明州(寧波)から海路運ばれてきた餞州青磁(越州窯青磁とする主張もあるが越州窯の陶磁は薄手の作りであり高麗の青磁とは模様の流行も異っている、越州窯の評判に仮託したものだろう。厚手の作りと花を多用する模様付けは景徳鎮など餞州窯の物に近い)と同じルートで技術が伝来し生産が始まったものである。 10世紀の窯跡は京畿道始興芳山洞(シフンパンサンドン)、黄海南道ペチョン郡ウォンサン里などで発掘されている。これらは塼(土を焼締めて板状にしたもの)で築いた塼築窯である。10世紀に属する遺品としては淳化3年(992年)銘の青磁長足祭器、淳化4年(993年)銘の壺(梨花女子大学博物館蔵)などがある。淳化4年銘壺の釉色は黄色がかっており、釉も流下して斑状になるなど、青磁の技術は発展途上であったことがうかがえる。 11世紀になると、高麗の国力の増大と中央集権体制の確立に伴い、青磁焼成の窯は全羅南道の康津(カンジン)に集中し、官窯的性格を強めていった。この時期の窯は、10世紀に用いられた塼築窯に代わって土築窯となっている。
※この「10 - 11世紀」の解説は、「高麗青磁」の解説の一部です。
「10 - 11世紀」を含む「高麗青磁」の記事については、「高麗青磁」の概要を参照ください。
10~11世紀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 03:01 UTC 版)
ベレンガーリオ1世(850年 - 924年)は、フリウーリ辺境伯(在位: 874年 - 924年)から、イタリア王および西ローマ皇帝(フランク・ローマ皇帝、在位: 888年 - 924年)を兼ねた人物である。ベレンガーリオはロンバルディアの鉄王冠を戴くことによってイタリア王に即位し、モンツァを帝国の首都とした。フン族の侵攻に対抗すべく、強固な要塞が築かれた。ベレンガーリオの治世、都市モンツァは一定程度の独立を享受することができた。独自の度量衡のシステムがあり、財産を集積した。ベレンガーリオはモンツァ大聖堂に対して、有名な鉄王冠も含め気前よく寄進を行った。 980年、ドイツからイタリアを訪れた神聖ローマ皇帝オットー2世をモンツァは迎えている。1000年にはオットー3世によってモンツァとその属領は保護された。10世紀、モンツァは経済的にも発展し、戴冠式を行う場所として以後2世紀にわたる名声を得ることになった。このことは、ライバルであるミラノを刺激した。1018年に、ミラノ大司教アリベルト (Aribert, Archbishop of Milan) がモンツァの領主となったため、モンツァは独立を失った。この時代は、アリベルトと皇帝コンラート2世の権力抗争の時代でもあった。
※この「10~11世紀」の解説は、「モンツァ」の解説の一部です。
「10~11世紀」を含む「モンツァ」の記事については、「モンツァ」の概要を参照ください。
- 10-11世紀のページへのリンク