ローマ帰国後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 09:48 UTC 版)
「スキピオ・アフリカヌス」の記事における「ローマ帰国後」の解説
ローマに戻ったスキピオは熱狂的な歓迎を受け、凱旋式の挙行を許される。そして「アフリカヌス」の尊称を授かり、以降スキピオ・アフリカヌスと名乗った。救国の英雄である彼には、他にも終身執政官、さらに終身独裁官の提案が何度もなされたが、スキピオはそれらを全て断っている。そして紀元前199年にケンソル(監察官)に選ばれたが、その後数年間は静かな隠遁生活を送った。 紀元前193年、敗戦によりローマの同盟国となっているカルタゴとヌミディアとの間で紛争が起き、スキピオはその調停役として北アフリカに赴く。しかし調停は不調に終わった。当時のローマ人はハンニバルを恐れるあまりカルタゴの肩を持つ事を好まなかったことが原因であり、ローマ元老院がカルタゴに圧力をかけたためハンニバルはシリアへ亡命してしまう。すると今度はセレウコス朝のアンティオコス3世のもとに身を寄せるハンニバルがアンティオコス3世をそそのかしてカルタゴに進攻して勢力を盛り返し、イタリアに再び攻め入るのではという不安が頭をもたげ、ローマはセレウコス朝へ宣戦布告した。総指揮は執政官に就任したスキピオの弟ルキウスが取り、スキピオ自身は参謀役として従軍する(シリア戦争)。 スキピオ兄弟はマグネシアの戦いで勝利をおさめ、この戦いでルキウスに「アシアティクス」という尊称が送られ、彼は「スキピオ・アシアティクス」と名乗るようになった。
※この「ローマ帰国後」の解説は、「スキピオ・アフリカヌス」の解説の一部です。
「ローマ帰国後」を含む「スキピオ・アフリカヌス」の記事については、「スキピオ・アフリカヌス」の概要を参照ください。
- ローマ帰国後のページへのリンク