ローマ建築の研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/09 20:17 UTC 版)
ローマ建築の研究は、建築が美術のひとつの分野として考えられるようになった、15世紀のルネサンス時代に始まる。ルネサンスの芸術活動は、古代美術こそが真に美しいとする観点に立脚するものであるが、ジョルジョ・ヴァザーリが「ローマ人についていえばノ(中略)ノ彼らはあたかもローマの様式をあらゆる様式のうちで最高のもの、否むしろ最も崇高なものにしようとして領土内のあらゆる地域から美しいものを探し出し、それをひとつの様式にまとめ上げたといえるだろう」 と述べているように、特に古代ローマ美術こそが古代美術の完成と考えられていた。また、この時代にギリシア建築は全く知られておらず、古代の建築とは、すなわちローマ建築であった。ルネサンス最初の建築論であり、以降の古典主義建築に大きな影響を与えたアルベルティの理論書『De Reaedificatoria』(1450年頃に著され、1485年出版)は、古代ローマの建築家マルクス・ウィトルウィウス・ポリオが残した、最古の建築書『De Architectura』を基本として書かれたものであるが、この建築書はアルベルティ以降も、ラファエッロやフラ・ジョコンド、アンドレーア・パッラーディオらを通じてその解析が続けられた。一方で、古代ローマ時代の遺構の実測調査や、古代文献の研究も進められたが、当時の研究目的は、あくまで建築設計における問題を解決するためのもので、ドナト・ブラマンテやラファエッロといった盛期ルネサンスの芸術家、そしてミケランジェロ、ジュリオ・ロマーノたちマニエリストの活動が物語るように、その建築活動はローマ建築に様々な意匠を見出し、これを設計に導入して新しい意匠を開拓すること、計画された建築物の価値を正当化することにあったと言える。このため、今日では一般的となっているローマ美術の様式上の区分について、ルネサンスの芸術家たちはほとんど意識していない。 ウィトルウィウスが著書において建築に導入している音楽的な調和比例は、ルネサンスの時代に建築における至上の美とみなされ、17世紀から18世紀に至るまで、建築の研究はウィトルウィウスから導かれるオーダーの比例原理に関するものであった。しかし、17世紀に、フランスの建築アカデミーにおいて、こうした調和比例がはたして本当に美を生み出すのか、という疑念が生まれる。建築家クロード・ペローは、『Ordonnances des Cinq Especes de Colonne』(1676年)において、ルネサンス以来の調和比例が美を生み出すという理論には根拠がなく、単純な整数比例が美しいという意見や批評が繰り返し与えられることで、これを美しいと錯覚するようになるのではないかと主張した。これに対し、建築アカデミー教授であったフランソワ・ブロンデルは、比例原理こそが建築美を生み出す基本的な原理であると反論したが、アントワーヌ・デゴデによるローマ建築の実測調査図面『Les edifices antiques de Rome』(1682年)によって、実際のローマ建築の比例は多様であり、ルネサンス的整数比例などというものはほとんど存在しないということが明らかとなった。ブロンデルをはじめとする保守派は、遺跡のなかに比例原理が見られないのは、高いものを見上げた場合など、比例の見え方が通常とは異なるために、最初から比例に補正を加えたものであると主張したが、ルネサンスの調和比例による世界観は大きく動揺し、やがて比例原理が建築の美を決定するという考えは放棄されることになる。 18世紀になると、ヨハン・ベルンハルト・フィッシャー・フォン・エルラッハの『Entwurf einer historischen Architektur』(1721年)(『歴史的建築の構想』)やヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンの『Geschichte der Kunst des Altertums』(1764年)(『古代美術史』)など、ドイツ・オーストリアにおいて近代的な美術史・建築史の研究が始まる。美術史・建築史は、それまでのバロック、ロココ芸術の嫌悪と反感によって生まれるが、18世紀から19世紀までのドイツ建築史の発展は、古典建築よりもゴシック建築(今日ではロマネスク建築と呼ばれているものも含む)の研究によってなされ、イギリス、フランスにおいても、この傾向はあまり変わらず、ローマ建築に対する建築史からの研究はあまり行われなかった。また、18世紀中期に新古典主義運動が始まると、建築の根源が議論される過程で、ギリシア建築の詳細な調査が出版されるようになり、ギリシア建築がローマ建築よりも古く、純粋であると考えられるようになった。特にヴィンケルマンは、『ギリシア美術模倣論』(1755年)において、当時のヨーロッパ文化を退廃・堕落したものとみなし、古代への回帰を訴えたが、古代美術がすべて均質で完成されたものとは見なしておらず、最も優れた美術は紀元前5世紀から紀元前4世紀までのギリシア古典期の美術であると考えた。古代の美術、特に彫刻が末期に向かうにつれて衰退していくということは、すでにルネサンスの時代にも認められていたが、彼は古代美術の衰退期はもっと早く、アレクサンドロス3世の死後(すなわちヘレニズム美術以降)にすでにその後退が始まり、従ってローマ美術は、ギリシア芸術のデカダンスであると考えた。 ルネサンスの時代に生み出された、芸術が衰退と退廃のサイクルを繰り返すという考え方は、ヴィンケルマンによって非常に印象的なものとなるが、哲学において大きな足跡を残すことになるゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルにも、この影響が見られる。ヘーゲルは、芸術とは自己理解を行うために必要な役割を担うものであり、芸術の形態は自己映像に応じて変化していくものであると考えた。彼によれば、芸術は歴史的に3つの段階、つまり象徴的芸術、古典的芸術、ロマン的芸術に分類され、それぞれエジプト・インドなどの東方の芸術、ギリシア・ローマの芸術、キリスト教・ゴシック芸術(現在ロマネスクと呼ばれるものを含む)がそこに含まれるとされる。ローマ建築は古典期芸術に含まれているが、厳密にはギリシア建築とキリスト教建築の中間形態であり、ギリシア建築が合目的性に徹し、単純かつ高貴であるのに対し、ローマ建築は様々な目的を持ち、私的な場にも建築美が要求されるが、贅沢で上品さに欠けると考えた。ただし、ヘーゲルにとって、建築の分野は主な関心事はなく、彼の建築に対する考え方は、アーロイス・ヒルトの『Die Baukunst nach der Grundsatzen der Alten』(1809年)に負うところが大きい。 現在、古代ローマは、政治学・法学・経済学など、様々な観点から研究が行われており、建築についても、都市遺跡の発掘 や碑文の解析によってある程度の情報が得られている。しかし、木材による架構や建築装飾など、考古学的に解明できない部分は多く、ローマ人が建築の美学をどのようにとらえていたかという根本的な問題ですら、ウィトルウィウスの『建築について』がほとんど唯一の情報源である。それも、ローマ建築においてどのような位置づけであったのかは分かっておらず、例えば、ウィトルウィウスの言う意味での建築家(建築家と呼ばれる職業があったことは、碑文などから明らかである)という職が成立していたのか、成立したとすればそれは何時のことか、といったことは明らかでない。
※この「ローマ建築の研究」の解説は、「ローマ建築」の解説の一部です。
「ローマ建築の研究」を含む「ローマ建築」の記事については、「ローマ建築」の概要を参照ください。
- ローマ建築の研究のページへのリンク