第2回三頭政治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 09:42 UTC 版)
「マルクス・アントニウス」の記事における「第2回三頭政治」の解説
当初は対立した両派であったが反共和派、反元老院で一致しアントニウス、オクタウィアヌス、レピドゥスの三者による同盟が成立。その勢力によってローマの支配権を掌握した。三人は国家再建三人委員に就任しローマを支配した(第2回三頭政治)。このとき三人委員会によるプロスクリプティオで、アントニウスの長年の政敵であったキケロが殺害された。 その後、マケドニア属州へ逃れていたマルクス・ユニウス・ブルトゥス、ガイウス・カッシウス・ロンギヌスら共和派をオクタウィアヌスと共にフィリッピの戦いで破った。三頭政治はもともと権力争いの一時的な妥協として成立していたため、各人は同盟関係にありながらも自らの勢力強化に努めた。アントニウスはローマを離れ、共和派に組していた東方の保護国王らと会見し関係を強化した。このときブルトゥスらを支援したプトレマイオス朝(エジプト)の女王クレオパトラ7世をタルソスへ出頭させ、出会った。クレオパトラ7世はアントニウスに頼んでエフェソスにいたアルシノエ4世を殺害させた。 こうしたなか紀元前41年の冬にアントニウスの弟ルキウス・アントニウス(英語版)と妻フルウィアはイタリアでオクタウィアヌスに反抗しペルシア(現:ペルージャ)で蜂起した(ペルシアの戦い(英語版))。この戦争にはオクタウィアヌスが勝利したが、ここで改めて三人の同盟の確認が行なわれた。アントニウスは死亡した妻フルウィアの後妻にオクタウィアヌスの姉オクタウィアを迎え、婚姻関係によって同盟は強化された。同時に三頭官はイタリア以外の帝国の領土を三分割し、東方はアントニウス、西方はオクタウィアヌス、アフリカはレピドゥスとそれぞれの勢力圏に分割した。 カエサルの果たせなかったパルティア征服を成し遂げることで、競争者であるオクタウィアヌスを圧倒することを目論んだアントニウスは、紀元前36年にパルティアに遠征した。この遠征の後背地としてアントニウスは豊かなエジプトを欲し、女王クレオパトラとの仲を再び密接にしていた。しかしこの遠征は失敗しローマ軍団のシンボルである鷲旗もパルティアに奪われた(第2次パルティア戦争(英語版))。 時系列的に少し戻るが、紀元前40-37年頃にユダヤ地方でそれまで王であったヨハネ・ヒルカノス2世の甥アンティゴノスがパルティアと組んでクーデターを起こしヒルカノスを捉えるという事件が起き、ヒルカノス側のヘロデがローマにこれを訴え、他に適任なものがいなかった ためアントニウスやオクタウィアヌスたちの推薦でヘロデが空位になっていたユダヤの王に選ばれることになった その後クーデターは鎮圧されてアンティゴノスは捉えられ、アントニウスは彼を支持するものが(親ローマ派である)ヘロデの邪魔をしないようにこの場でアンティゴノスを処刑させた。
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