加藤正次_(戦国武将)とは? わかりやすく解説

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加藤正次 (戦国武将)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/05 02:51 UTC 版)

 
加藤 正次
時代 戦国時代後期 - 江戸時代初期
生誕 天文18年(1549年[1][2]
死没 慶長18年8月17日1613年10月1日[1][2]
別名 喜助、喜左衛門[1][2]
戒名 善阿[2]
幕府 江戸幕府 旗本
主君 織田信長徳川家康[1]
父母 父:加藤正任[3]
加藤利正の娘[3]
正重、高林吉次の妻、服部政信の妻[4]
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加藤 正次(かとう まさつぐ)は、戦国時代から江戸時代初期の武将。

生涯

織田氏に仕えた加藤正任(喜左衛門)の子で、当初は竹本氏を称する。伯父の家系が徳川氏の家臣だったため、永禄11年(1568年徳川家康より招かれ、家名を加藤に戻すよう命じられている[1][3]

元亀元年(1570年姉川の戦いでは、味方に紛れて本陣に近づいた敵兵を斬るという武功があった。元亀3年(1572年三方ヶ原の戦いで従兄の加藤正信が戦死したため、正信の妹を妻としてその家督を襲った。天正3年(1575年長篠の戦いで敵将の首級を挙げた他、天正7年(1579年小山城攻め、天正12年(1584年小牧・長久手の戦いで武功があった[2]

天正18年(1590年小田原征伐に従軍。戦後に徳川氏が関東転封となると、武蔵国比企郡上総国望陀郡に2,000石を与えられた。慶長5年(1600年関ヶ原の戦いでは使番を務め、戦後は京都所司代奥平信昌属下として京中の警衛にあたる。翌年罪を得て蟄居となるが、翌年には東海道の諸宿場に下された伝馬定書に連署している[5]。慶長8年(1603年)家康の上洛の供奉に加わっている。慶長18年(1613年)65歳で没[1][4]

脚注

  1. ^ a b c d e f 『日本人名大辞典』, § 加藤正次.
  2. ^ a b c d e 『寛政重修諸家譜』, p. 32.
  3. ^ a b c 『寛政重修諸家譜』, pp. 31–32.
  4. ^ a b 『寛政重修諸家譜』, pp. 32–33.
  5. ^ 中村 1987, p. 149.

参考文献




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