三方ヶ原における合戦の経緯とは? わかりやすく解説

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三方ヶ原における合戦の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 00:29 UTC 版)

三方ヶ原の戦い」の記事における「三方ヶ原における合戦の経緯」の解説

当初徳川家康佐久間信盛は、武田軍次の狙い本城浜松城であると考え籠城戦備えていた。一方武田軍は、二俣城攻略から3日後の12月22日二俣城出発すると、遠州平野内を西進する。これは浜名湖突き出た庄内半島北部位置する堀江城現在の浜松市西区舘山寺町)を標的とするような進軍であり、武田軍浜松城素通りしてその先にある三方ヶ原台地目指しているかにみえた。 これを知った家康は、一部家臣反対押し切って籠城策を三方ヶ原から祝田の坂を下る武田軍背後から襲う積極攻撃策に変更し織田からの援軍加えた連合軍率いて浜松城から追撃出た。そして同日夕刻三方ヶ原台地到着するが、武田軍魚鱗の陣敷き万全構え待ち構えていた。眼前にいるはずのない敵の大軍見た家康鶴翼の陣をとり両軍戦闘開始された。しかし、不利な形で戦端を開くことを余儀なくされた連合軍武田軍撃破され、日没までのわずか2時間ほどの会戦連合軍多数武将戦死して壊走する。 武田軍死傷者200人に対し徳川軍死傷者2,000人を出した。特に、鳥居四郎左衛門成瀬藤蔵本多忠真田中義綱といった有力な家臣をはじめ、先の二俣城の戦いでの恥辱晴らそうとした中根正照青木貞治や、家康身代わりとなった夏目吉信鈴木久三郎といった家臣、また織田軍の平手汎秀といった武将失ったこのように野戦持ち込んだことを含めて全て武田軍狙い通り進んだと言えるが、戦闘開始時刻遅かったことや本多忠勝などの武将防戦により、家康本人討ち取ることはできなかった。

※この「三方ヶ原における合戦の経緯」の解説は、「三方ヶ原の戦い」の解説の一部です。
「三方ヶ原における合戦の経緯」を含む「三方ヶ原の戦い」の記事については、「三方ヶ原の戦い」の概要を参照ください。

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