三方お得替え
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 04:24 UTC 版)
代わって陸奥白河藩から松平定永が白河藩の飛び地である越後国柏崎の所領と共に合計11万石で入った。この久松松平家はかつて桑名藩主であった定重の系統であり、定永は寛政の改革を行った老中首座で白河藩主であった松平定信の嫡男である。この所領替えは隠居していた定信が藩祖・定綱以来の先祖の地である桑名に戻りたいという願望があり、かつては尊号事件で定信と対立していた将軍・徳川家斉も寛政の改革の功労者であり老中であった定信に対する報恩として動いたという。これに対して桑名藩主として113年間も就任し、民心も藩政も安定して墳墓もあり、さらに左遷されるような致命的な失政もなかった奥平松平家の藩主・松平忠堯は何とかこの移封命令を撤回してもらおうと裏工作を行うも、将軍・家斉の力が動いておりどうしようもなかった。しかもそれまで忍藩主であり忠堯同様に失政もなく忍に9代155年もいた阿部正権が白河へ移るという三方領知替えであったため、江戸では、 住み慣れし(阿部正権)忍をたちのきあべこべに、お国替えとはほんに白川 忍様はおし流されて白川へ、あとの始末はなんと下総(松平忠堯) 白川に古ふんどし(松平定永)の役おとし、今度は桑名でしめる長尺 という落首がはやったという。これは松平定信の威光と存在が当時は絶大なものであり、両家は逆らうこともできなかった。 この国替えの際、白河藩では家臣一同が大いに喜びあい、赤飯を炊いて祝ったといわれる。理由は先祖代々の墳墓の地であり故郷に帰還できるためと、寒冷の厳しい白河から温暖で物成もよい桑名であること、京都や大坂に近く東海道の要衝として繁栄していること、桑名には良港があり海の幸の恩恵がありこれは久松松平家にとってはお得替えといわれた。ただし、白河藩時代に久松松平家は1万4000両、そしてこの移封に伴う諸経費が9万両かかって借財は10万4,000両になり、藩財政はますます火の車になった。 一方でこの桑名への移封に関して、松平定永や白河藩の家臣は処罰同然に桑名に移封させられた、という逆の説も存在する。当時、江戸を外国船から守るために房総半島にて海防警備にあたっていた白河藩はその財政的負担に苦しんでいて、松平定永は老中水野忠成に白河藩とほぼ同規模で房総半島に近い下総国佐倉藩への移封を希望した。これに驚いた佐倉藩主堀田正愛は若年寄であった一族の堀田正敦と相談して、水野忠成や将軍・家斉の父で尊号事件において松平定信と対立していた一橋治済らに移封阻止を懇願した。その結果、水野忠成や遠山景晋(勘定奉行)は佐倉藩が白河藩の海防任務を引き継ぐこと、その理由づけのために白河藩を江戸や房総から遠い桑名の地に転封させることで話を収拾させた。これについては、当時の白河藩側の史料にも転封願出の理由は房総警護が「武門の面目」でありこれを果たすためであったのに、思いもよらず桑名への転封を命じられたと記されており、松平定永にとっては桑名は希望する移封先ではなかったことを裏付けている。 なお、定信自身が望んだ移封であるが、定信本人は高齢のため桑名に入部することなく、文政12年(1829年)に72歳で江戸で死去した。
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