一言坂・二俣城の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 07:54 UTC 版)
詳細は「一言坂の戦い」を参照 徳川家康としては、三河からは山県昌景が侵攻しているためにここの兵力は動かせず、遠江の兵力である8000だけで対抗するしかなかった。武田軍の半数以下である。しかし信玄の侵攻に対してこのまま動きを見せなければ味方国人の動揺は必至と見て、10月14日に家康は信玄と戦うべく出陣した。しかし太田川の支流である三箇野川や一言坂で武田軍と衝突した徳川軍は、兵力の多寡により敗退する。しかし家康の重臣・本多忠勝や大久保忠佐らの活躍もあって家康は無事に浜松城に撤退した。このときの本多忠勝の活躍は、信玄をして感嘆させるものであったと伝えられている。 詳細は「二俣城の戦い」を参照 10月15日、信玄は匂坂城を攻略した。10月16日にはすでに只深城を攻略して二俣城を包囲していた馬場信春の部隊と合流した。二俣城は遠江の中央部に位置する要衝であった。しかもその名前の如く、天龍川と二俣川が合流する二俣の丘陵上に築かれた堅城であった。城主の中根正照は兵力で圧倒的に不利な立場でありながら徹底抗戦を行ない、武田軍を苦しめた。しかし信玄の策略によって行なわれた水攻めにより水の手が断たれ、さらに三河に侵攻していた山県昌景の部隊が信玄本隊に合流するなどした。 11月下旬、織田に「武田軍が二俣城を囲んだ」という報が届いた(信長公記)。信長はすぐに佐久間信盛・平手汎秀・水野信元らを派遣した。 12月19日に正照は城兵の助命を条件にして開城し、浜松城に落ちていった。これにより、遠江の大半が武田領となり、また遠江の国人・地侍の多くも武田軍の味方となった。織田の援軍が到着した時、二俣城はすでに落ちており、武田軍は堀江城を攻めていた(信長公記)。
※この「一言坂・二俣城の戦い」の解説は、「西上作戦」の解説の一部です。
「一言坂・二俣城の戦い」を含む「西上作戦」の記事については、「西上作戦」の概要を参照ください。
一言坂・二俣城の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 00:29 UTC 版)
「三方ヶ原の戦い」の記事における「一言坂・二俣城の戦い」の解説
詳細は「一言坂の戦い」および「二俣城の戦い」を参照 10月13日に只来城を落とした馬場信春隊はその後、徳川氏の本城・浜松城と支城・掛川城・高天神城を結ぶ要所・二俣城を包囲し、信玄率いる武田軍本隊も二俣城に向かっていた。10月14日、二俣城を取られることを避けたい家康がひとまず武田軍の動向を探るために威力偵察に出たが、一言坂で武田軍本隊と遭遇し敗走する(一言坂の戦い)。 10月16日には武田軍本隊も包囲に加わり、降伏勧告を行う。二俣城は1,200人の兵力しか無かったがこれを拒否したため、10月18日から武田軍の攻撃が開始される。11月初旬に山県昌景隊も包囲に加わり、そして城の水の手を絶たれたことが致命的となって、12月19日、助命を条件に開城・降伏した(二俣城の戦い)。これにより、遠江国の北部が武田領となっていた。
※この「一言坂・二俣城の戦い」の解説は、「三方ヶ原の戦い」の解説の一部です。
「一言坂・二俣城の戦い」を含む「三方ヶ原の戦い」の記事については、「三方ヶ原の戦い」の概要を参照ください。
- 一言坂・二俣城の戦いのページへのリンク