近藤藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/18 15:24 UTC 版)

近藤藩[要出典](こんどうはん)[注釈 1]は、江戸時代初期に存在した藩。藩主の近藤家は、もと堀家の重臣で、堀秀政の四男・近藤政成が養子に入って家を継いだ。1610年に越後福嶋騒動で堀家嫡流が改易された後も、近藤家は信濃国・美濃国に所領を有する1万石の大名として存続したが、1618年に政成が没すると、継嗣が幼少であるとして所領を半減された。
近藤家は大名ではなくなったものの、信濃国伊那郡に知行地を有する大身旗本(旗本寄合席。当初は交代寄合)として、幕末まで存続する[2]。本記事では旗本時代についても言及する。
歴史
前史
尾張沓掛城主・近藤家
近藤氏は戦国期に尾張国沓掛城主であった一族である[3]。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの際の当主は近藤景春(九十郎)であり、徳川家康とも密かに気脈を通じていたという[3]。『寛政重修諸家譜』(以後『寛政譜』)によれば、景春の子である重郷は美濃国方県郡に住し[注釈 2]、織田信長の側近である万見重元(仙千代)に仕え、天正6年(1579年)4月23日に安土で没した[3]。重郷の子である重勝も万見重元に仕えた[3]。
堀家重臣・近藤重勝
天正6年(1579年)12月8日、万見重元は伊丹城攻め(有岡城の戦い)の中で討死した。この戦いで重勝は鉄砲傷を負い、武名が知られたという[3]。
重勝は、万見重元の同僚であった堀秀政の招きを受け、仕えることとなった[3]。天正13年(1585年)に堀秀政が越前北庄城主になると、重勝は5000石の知行を与えられた[3]。天正18年(1590年)に秀政が没すると、嫡男の堀秀治が堀家の家督を継ぐが、二男の堀親良にも父の遺領から2万石が与えられて大名となった。重勝は親良に属した[3]。慶長3年(1598年)、堀秀治が越後春日山城に移され、堀親良・堀直政ら一族、村上頼勝(義明)・溝口秀勝ら与力大名とともに越後一国を支配することとなった(高田藩参照)。この際、親良の知行4万石(蔵王堂藩参照)のうち1万石が近藤重勝に分け与えられた[3][5][注釈 3]。
なお、堀親良は慶長7年(1602年)に隠居し、家督を譲られた甥の堀鶴千代は早世して「蔵王堂藩3万石」は廃藩に至ることになる[注釈 4]。
近藤政成
近藤政成と堀家の関係略系図 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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近藤重勝は、堀秀政の四男である近藤政成を養子とした[3]。 政成は慶長5年(1600年)、13歳の時に徳川家康に御目見して徳川家に仕え[注釈 6]、小姓に列した[6]。慶長8年(1603年)、政成は従五位下信濃守に叙任され、家康の将軍宣下御礼の参内に従った[6]。慶長9年(1604年)1月24日、近藤重勝は京都で没し[3]、政成が4月5日に養父の旧領1万石を相続した[6]。
慶長11年(1606年)に堀秀治が死去し、堀忠俊が跡を継ぐと、堀一族の紛争が激化した(越後福嶋騒動参照)。慶長15年(1610年)、越後福島藩主[注釈 7]・堀忠俊が改易される[注釈 8]とともに、その他の堀一族も越後国から転出させられた。近藤政成の領地1万石も、信濃・美濃両国に5000石ずつ分かれる形で移された[7]。信濃国の領地は高井郡内[注釈 9]、美濃国の領地は安八・山県・石津・中島郡の4郡にまたがっていた[6]。
両度の大坂の陣においては、近藤政成は永井直勝の組に属した[6]。元和3年(1617年)5月26日には領知朱印状を与えられる[6][8]。
元和4年(1618年)6月22日、政成は31歳で死去した[6]。政成の子の近藤百千代(のち近藤重直。実名は重堯とも)は、当時7歳であった[6]。百千代は12月23日に徳川秀忠に御目見するが[6]、幼少であることを理由として所領相続は5000石分しか認められなかった[6]。残り5000石は伯父である堀親良に与えられるとともに[注釈 10]、親良には百千代が成長するまでの後見を命じられた[6][注釈 11]。
これにより近藤家は大名ではなくなり、旗本寄合席に列した[6]。当初は参勤交代を行う交代寄合であった[2]。
後史
近藤家の知行地は、元和5年(1619年)6月ころに[9]高井郡から伊那郡に移された。改易された元安芸広島藩主・福島正則に与える知行地を高井郡内に設ける(高井野藩参照)ための措置とされる[9]。重直は、立石村(現在の長野県飯田市立石)の甲賀城跡に陣屋を設けた[10]。
天和2年(1682年)に近藤重直は隠居した[6]。子の重信が4300石を相続し、弟の近藤重興[注釈 12]に700石を分知した[6]。以後、近藤家の嫡流は4300石の大身旗本として幕末まで存続する。
重信の子・政徳の代に幕府に願い出て若年寄支配・江戸定府となった。近藤家は馬術の家であり、馬術師範を務めるようになったため定府になったとも伝えられる[12]。
寛政年間以降、知行地支配の陣屋は山本村(現在の長野県飯田市山本)に移転した。幕末期の当主・近藤政敏(利三郎)は、将軍徳川家茂・慶喜の馬術師範を務めた[13]。
歴代藩主
- 近藤家
外様。1万石。
- 政成(まさなり)
領地
元和3年(1617年)の藩領
元和3年(1617年)5月26日の領知朱印状によれば、信濃国高井郡で7か村5000石[注釈 13]、美濃国で10か村5000石[8][注釈 14]。
旗本近藤家の領地
領地は山本村、上穂村、大草村、小川村、立石村、小松原村、河内村、栗矢村、合原村、梅田村、鴨目村、恩沢村、大島村、大久保村、分知領は粒良脇村、北又村、大平村、下梅田村である(いずれも現在の飯田市、下條村、阿智村、阿南町などの一部)。
脚注
注釈
- ^ 事典類では「近藤政成領」[1]などの形で言及される。
- ^ 『寛政譜』には「界天村」とある。同郡には同音あるいは近似の改田村(現在の岐阜市東改田および西改田)がある[4]。
- ^ 『寛政譜』近藤重勝の記事によれば、重勝は「豊臣太閤により親良が封のうちにをいて一万石を分ちあたへらる」[3]、堀親良の記事によれば、親良は「蔵王城に住し〔…中略…〕四万石を領し、一万石を族臣近藤織部佐重勝にわかちあたふ」[5]。
- ^ 堀親良は慶長7年(1602年)に隠居、甥の堀鶴千代に家督を譲るが、3万石のうち隠居料として1万2000石を領し続けた[5]。のちに隠居料分は鶴千代に返し、幕府から隠居料に相当するの蔵米1万2000石を与えられ(のち知行に切り替え。真岡藩参照)、大名に復帰する[5]。
- ^ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。
- ^ 『寛政譜』の重勝の記事によれば、重勝が政成を連れて大坂城で徳川家康に拝謁した際に、重勝の祖父・近藤景春の話となり、家康は景春の忠節を「まことに当家譜第のものなり」と称え、子息を出仕させるよう述べたとある[3]。
- ^ 堀秀治は、山城である春日山城に代わる居城として、海沿いに福島城の築城を開始。慶長12年(1612年)、忠俊の代に至って福島城に居城を移した。このため、改易時の堀忠俊は「越後福島藩主」とも表現される。その後入封した松平忠輝が高田城を新たに築城して移った。
- ^ 同時に、越後三条藩主・堀直清(堀直政の長男)も改易された。
- ^ 堀家改易後に越後福島城に入ったのは信濃川中島藩主であった松平忠輝である。忠輝は川中島藩時代の領地の大部分を維持したまま、越後で加増地を得たことになる。近藤政成に与えられた信濃国高井郡の領地は、忠輝の領地の一部を割いたものである[7]。
- ^ 『寛政譜』堀親良の記事には、元和4年(1618年)12月6日に美濃国山県郡のうちにおいて5000石を加増とあるが、近藤家との関係は記されていない[5]。
- ^ なお、堀親良の子・堀親昌は寛文12年(1672年)に信濃国伊那郡に領地を移されており(信濃飯田藩2万石)[5]、以後堀家が幕末・明治維新期まで飯田藩主を務める。
- ^ 重興は重直の三男。重興は兄(重直二男)である高郷の家を末期養子として継いだため[11]、『寛政譜』の重信の記事では重興を「姪(おい)」と表現している[6]。
- ^ 『角川日本地名大辞典』では、間山村(現在の中野市間山)[14]が「近藤氏領」として、羽場村(小布施町押羽)が「旗本近藤氏領と思われるが未詳」[15]と言及されている。『日本歴史地名大系』では押切村(小布施町押羽)[16]の領主が「近藤政成か」とする。
- ^ 『日本歴史地名大系』では海津郡仏師川村(海津市平田町仏師川)[17]・深浜村(海津市海津町深浜)[18]、安八郡下宿村(大垣市墨俣町下宿)[19]・里村(輪之内町里)[20]などが「近藤政成領」とする。
出典
- ^ “高井郡”. 角川日本地名大辞典. 2025年4月30日閲覧。
- ^ a b 池田勇太 2010, p. 96.
- ^ a b c d e f g h i j k l m 『寛政重修諸家譜』巻第四百八十六「近藤」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第五輯』p.424。
- ^ “改田村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2025年4月30日閲覧。
- ^ a b c d e f 『寛政重修諸家譜』巻第七百六十四「堀」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.1177。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『寛政重修諸家譜』巻第四百八十六「近藤」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第五輯』p.425。
- ^ a b “忠輝の越後移封と北信濃諸領の成立”. 長野市誌 第三巻 歴史編 近世1. 2025年4月30日閲覧。
- ^ a b “松平忠昌と松代藩の成立”. 長野市誌 第三巻 歴史編 近世1. 2025年4月30日閲覧。
- ^ a b “酒井忠勝の松代入封”. 長野市誌 第三巻 歴史編 近世1. 2025年4月30日閲覧。
- ^ “立石村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2025年4月30日閲覧。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第四百八十六「近藤」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第五輯』pp.426-427。
- ^ 池田勇太 2010, pp. 96–97.
- ^ 池田勇太 2010, p. 97.
- ^ “間山村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2025年4月30日閲覧。
- ^ “羽場村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2025年4月30日閲覧。
- ^ “押切村”. 日本歴史地名大系. 2025年4月30日閲覧。
- ^ “仏師川村”. 日本歴史地名大系. 2025年4月30日閲覧。
- ^ “深浜村”. 日本歴史地名大系. 2025年4月30日閲覧。
- ^ “下宿村”. 日本歴史地名大系. 2025年4月30日閲覧。
- ^ “里村”. 日本歴史地名大系. 2025年4月30日閲覧。
参考文献
- 『角川日本地名大辞典 20 長野県』角川書店、1990年。
関連文献
- 池田勇太「旗本近藤家の明治維新」『飯田市歴史研究所年報』第8号、2010年。doi:10.57299/iihrab.8.0_96。
- 村沢武夫『近藤家と政寛翁』竹村清次郎、1949年。
- 宮下一郎「旗本近藤氏の研究」『伊那路』第20巻、第1-3号、1976年。
関連項目
- 須坂藩 - 当藩と同様、1610年に高井郡へ移された堀直重(奥田堀氏)の藩
- 近藤藩のページへのリンク