明治中・後期
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1891年(明治24年)に東北本線が全通し、東京と青森が鉄路で結ばれ、浅虫駅が開業した。これが原動力となり、温泉地は徐々に発展を始めた。温泉地に駅ができたことで単に交通の便がよくなったというだけでなく、本州と北海道とを行き来する旅客が長距離移動の途中で体を休めたり、津軽海峡が時化て足止めとなった場合の滞在地となった。1902年(明治35年)の八甲田雪中行軍遭難事件の生存者や、1904年(明治37年)から1905年(明治38年)の日露戦争の傷痍軍人らが浅虫温泉へ送り込まれ、温泉の名が青森県民以外にも知られるようになった。1909年(明治42年)には旧日本陸軍の第2師団(仙台)と第8師団(弘前)により、浅虫転地療養所が設立された。 同じ頃から、周辺では馬場山散策コースの整備が行われ、観光客誘致の取り組みも始まった。1911年(明治44年)には「浅虫八景」を選定し、絵葉書や新聞を利用した宣伝も行われた。1907年(明治40年)の時点では、温泉地には旅館7軒、温泉客舎15、共同浴場2、商店33となり、貨物の運送業者、郵便局、電信局、電話局もあり、人口1000を超す街となった。
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明治中後期
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1881年(明治14年)、警視庁が再置され、内務省本省から独立した。警視庁の長は警視総監となり、この官名は現在に引き継がれている。警視庁の初期には警視副総監、巡査総長など現在とは異なる名称の職も置かれたが、数度の改正を経て1891年(明治24年)には警視総監 - 警視 - 警部 - 巡査の形となった。 東京府以外の府県では、1881年に警部長 - 警部 - 警部補 - 巡査の形となった。警察部門の名称は、警察本署から警察本部、警察部と改められたが、警部長が引き続いてその長となった。1905年(明治38年)の警部長廃止後は警務長が置かれ、警察部長たる事務官が充てられた。台湾・朝鮮の外地には、巡査の下に巡査補の階級が置かれ、台湾人・朝鮮人が巡査補に任命された。 1890年(明治23年) - 巡査部長を設置。警部補を廃止(警部に吸収)。 1900年(明治33年) - 府県に警視を設置(1924年(大正13年)に地方警視に改称)。 1910年(明治43年) - 警部補を再び設置。
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