梅原修平とは? わかりやすく解説

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梅原修平

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/21 02:13 UTC 版)

梅原 修平(うめはら しゅうへい、1837年天保8年3月[1]) - 1910年明治43年)1月28日[1][2])は幕末から明治時代の政治家銀行家貴族院多額納税者議員。別名・太郎兵衛[3]、諱は経忠、号は王渓[4]

経歴

相模国大住郡尾尻村(南秦野村、南秦野町を経て現秦野市)の名主で醸造業を営む梅原太兵衛の子[4]林靏梁に漢学を、武蔵町田の小沢安斎から和学を、平戸の萩原太郎に剣術を学び、昌平坂学問所でも学んだ[2][3]。邸内に道場を設け、青少年に剣術と和漢学を教えた[2][3]。名主役、戸長を経て[1]、大住、淘綾両郡の区長を務めた[4]。ほか、南秦野村会議員[1]、神奈川県農工銀行、共伸社[3]各頭取を務めた[4]

1890年(明治23年)神奈川県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日[5]から1897年(明治30年)9月28日まで在任した[1]

親族

  • 婿養子 梅原良(実業家、衆議院議員、小笠原東陽二男)[6]
  • 二女 梅原ヤヱ(梅原良の妻)[6]
  • 四男 梅原経世(梅原良の養子)[6]

脚注

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  1. ^ a b c d e 衆議院、参議院 編 1960, 183頁.
  2. ^ a b c 『神奈川県史 別編1』131頁。
  3. ^ a b c d 『かながわ自由民権探索』130-131頁。
  4. ^ a b c d 竹内ほか 1993, 300頁.
  5. ^ 『官報』第2179号、明治23年10月2日。
  6. ^ a b c 「梅原良」人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年、う37頁。

参考文献

  • 衆議院、参議院 編   『議会制度七十年史 第1』大蔵省印刷局、1960年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3034963  
  • 神奈川県県民部県史編集室編『神奈川県史 別編1』人物 : 神奈川県歴史人名事典、神奈川県、1983年。
  • 竹内理三ほか 編纂 『神奈川県姓氏家系大辞典』角川日本姓氏歴史人物大辞典14、角川書店、1993年。ISBN 4040021401 
  • 大畑哲『かながわ自由民権探索』夢工房、2008年。



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