エログロナンセンスと梅原北明の時代
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「鬼畜系」の記事における「エログロナンセンスと梅原北明の時代」の解説
詳細は「エログロナンセンス」を参照 世界恐慌が起こった1929年(昭和4年)から1936年(昭和11年)にかけてエログロナンセンスと呼ばれる退廃文化が日本でブームとなった。時代的背景として関東大震災(1923年)による帝都壊滅、官憲のファシズム台頭、プロレタリア文化運動の弾圧、恐慌による倒産や失業の増加、凶作による娘の身売りや一家心中などで社会不安が深刻化しており、出口のない暗い絶望感とニヒリズムが世相に充満していた。大衆は刹那的享楽に走り、共産主義革命を翼賛する“反体制的反骨”のプロレタリア文化運動も行き詰まりの果てに、常識を逸脱するエログロナンセンスへと流れていった。このムーブメントはまさしく混迷極まる昭和初期のわずかな暗い谷間に咲いた、現実逃避の徒花であった。 このブームの中心人物こそ「エログロナンセンスの帝王」「地下出版の帝王」「猥本出版の王」「発禁王」「罰金王」「猥褻研究王」などと謳われたエログロナンセンスのオルガナイザー・梅原北明である。北明は『デカメロン』『エプタメロン』の翻訳で知られる出版人で、1925年(大正14年)11月にはプロレタリア文芸誌の体裁を取った特殊風俗誌『文藝市場』(文藝市場社)を既成文壇へのカウンターとして創刊。創刊号では「文壇全部嘘新聞」と題して田山花袋、岡本一平、辻潤が春画売買容疑で取調べられている横で、菊池寛邸が全焼し、上司小剣が惨殺されるという過激な虚構新聞を見開き一頁を割いて掲載した。それら内容はいずれも冗談と諧謔の精神に満ち溢れており、既成権威に対してイデオロギーを持たず 無意味なまでに反抗するような姿勢は、当時の同人からも「焼糞の決死的道楽出版」と評された。 1926年(大正15年)12月、北明が出版した会員誌『変態・資料』(文藝資料編輯部)4号では、月岡芳年画『奥州安達がはらひとつ家の図』と共に、伊藤晴雨が撮影した「逆さ吊りの妊婦」(1921年)が本人に無断で掲載された。その上「この寫眞は画壇の變態性慾者として有名な伊藤晴雨畫伯が、臨月の夫人を寒中逆様に吊るして虐待してゐる光景」「恐らく本人の伊藤畫伯もこれを見たら、寫眞の出處に驚くだらう」という事実無根の解説文を載せ、大いに物議を醸した。なお、北明と晴雨は留置場で同室した仲であり、互いの性格をよく知っていたことから、晴雨は写真の無断転載について「北明という男は罪のない男で腹も立たない」と述べている。以降も同誌には過激なグラビアが掲載され、9号(27年6月)には反戦写真集『戦争に対する戦争』(1924年)から負傷兵のえぐれた顔写真を無断転載し、チューブで食事する写真に「何と芸術的な食べかただろう!」「手数はかかるが彼の生活は王侯のそれと匹敵している」など本来の文脈から完全に逸脱した不謹慎なキャプションを添えた。この他にもミイラや手足のホルマリン漬けなどグロ写真が終刊まで無意味に掲載され続けた。 この間にも北明の出版物は、立て続けに発禁・摘発・押収を喰らうようになる。次第に北明の目的は、変態雑誌を世に送り出すことなのか、それとも「変態」を用いて官憲への抵抗を周囲に見せびらかすことなのか、いまいち判然としなくなっていった。これについて竹内瑞穂は「彼が〈変態〉を用いて行ったのは、“〈普通〉であれ”と高圧的に命じてくる公権力への抵抗であった」と指摘している。しかし「変態」を用いた抵抗もむなしく、1928年(昭和3年)までに『変態・資料』および『文藝市場』とその後継誌『カーマシャストラ』は徹底的な発禁処分により廃刊に追い込まれ、北明本人も出版法19条「風俗壊乱」の疑いで市ヶ谷刑務所に投獄され前科一犯となる。 限界を感じた北明は「エロ」から「グロ」に転向し、仮出獄後すぐに猟奇雑誌『グロテスク』(1928-1931年、グロテスク社→文藝市場社→談奇館書局)を創刊する。さっそく新年号が発禁になると、北明はそれを逆手にとって読売新聞に「急性發禁病の爲め、昭和三年十二月廿八日を以て『長兄グロテスク十二月號』の後を追い永眠仕り候」というユニークな死亡広告を出し、世人の注目を集めた。また北明は度重なる発禁を「金鵄勲章ならぬ禁止勲章授与、数十回」と声高らかに喧伝し、警察からは「正気だか気ちがいだか、わけのわからぬ猥本の出版狂」と見なされた。発禁本研究家の斎藤昌三は「軟派の出版界に君臨した二大異端者を擧げるなら、梅原北明と宮武外骨老の二人に匹敵する者はまずない。その実績に於て北明は東の大関である」と評価している。結果、北明は生涯で家宅捜索数十回、刑法適用25回、出版法適用12回、罰金刑十数回、体刑5年以下の筆禍を受けることになった。 与太雑誌『グロテスク』自体は度重なる発禁と罰金で、ほとんど採算無視の放漫経営状態にあったが、発行部数だけは伸び続け、1929年4月号で部数は遂に1万部を突破した。同誌は『変態・資料』と違って一般に市販されたこともあってか、文献研究雑誌の趣が強く、北明自身も「文献趣味雑誌」と自認していたため、後の視点で見ると決してグロテスクなわけではないが、戦前の抑圧社会で「グロ」を主題にした軟派雑誌が公刊で1万部を売ったという事実は、それだけで驚異的だった。結果的に『グロテスク』は出版界にグロ旋風を巻き起こし、数多くの亜流本を生みだした(後述)。 1931年(昭和6年)に北明は、菊判2100頁にも及ぶ古新聞漁りの集大成『近世社会大驚異全史』を刊行する。しかし今度検挙されたら保釈がきかないと弁護士から宣告された北明は当局から逃れるため上海や大阪に逃がれ、ほどなく艶本出版から完全に手を引き、靖国神社の職員となった。また二・二六事件以降は国内での検閲・発禁が激化していき、一連のムーブメントは1936年(昭和11年)頃を境に終息していった。この年、日本三大奇書の一つ『ドグラ・マグラ』を著した夢野久作も急逝する。
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