シュテンネスの反乱
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ナチスが有力政党として活動するようになると、保守勢力と協調する必要が生まれた。このため社会主義的な思想を持つ古参党員や党内左派の不満が増大した。特に突撃隊は労働者階級が多数を占めていたため、そういう者が多かった。 1930年7月18日に国会が解散された後の8月1日、ザロモンは突撃隊指導者を国会議員選挙名簿に加えるよう要求したが、ヒトラーは「突撃隊員を国会議員にすれば本来の突撃隊の任務が疎かになる恐れがあるし、また政治組織と突撃隊の区別も曖昧になる」としてこれを拒否した。不服に思ったザロモンは8月12日に突撃隊司令官を辞職したため、9月1日にヒトラーが自ら突撃隊最高指導者に就任することになった。これが直接の引き金となり、各地の突撃隊員が党の政治組織から依頼された宣伝活動をボイコットするようになった。一番過激だったのはベルリンの突撃隊だった。1930年8月28日に突撃隊ベルリン東部指導者であったヴァルター・シュテンネスがミュンヘンの党本部に対してベルリン大管区指導者であったゲッベルスの解任を要求した。党本部がこれを拒否すると、8月30日にシュテンネス一派はベルリン大管区本部の襲撃を開始した。ゲッベルスはクルト・ダリューゲの親衛隊部隊を投入したが、突撃隊の方が数に勝り、鎮圧に失敗した。結局ゲッベルスは警察に介入してもらって鎮圧した。9月1日にはヒトラー自らがベルリンを訪れてシュテンネスを直接説得してひとまず収めた。 ヒトラーは、突撃隊の監視を強化するため、1930年11月7日に親衛隊は突撃隊指揮官の命令に従う必要はないと定めた(ただし形式的には長いナイフの夜事件まで親衛隊は突撃隊の傘下にあった)。
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シュテンネスの反乱
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「ヴァルター・シュテンネス」の記事における「シュテンネスの反乱」の解説
1930年8月28日、シュテンネスはミュンヘンの党本部に対して、ベルリンの大管区指導者ヨーゼフ・ゲッベルスの解任を要求した。8月30日、シュテンネスら率いる突撃隊は、ゲッベルスが発刊している党機関紙「デア・アングリフ」のベルリン出版本社に攻撃を仕掛けた。事件当時、ゲッベルスはヒトラーと共にブレスラウにいたが連絡を受けベルリンに戻って突撃隊の鎮圧を急いだが、シュテンネスの突撃隊員の数に圧倒され警備の親衛隊員は殴り倒されていた。ゲッベルスは警察に出動を要請してようやくシュテンネスらの暴徒を鎮圧した。その後、ヒトラーはシュテンネスらを説得し、突撃隊の秩序回復のためエルンスト・レームを突撃隊最高指導者に任命する。 4月1日、シュテンネスは突撃隊に対する冷やかな待遇と未だに合法路線を行う党本部の方針に納得せず、再度反乱を起こし、「デア・アングリフ」の出版社を占拠した。シュテンネスは自身の立場を明確に示すため、機関誌を左派的な内容に書き換えばらまいた。しかし、翌日に施設は警察に支援された親衛隊によって包囲され反乱は再び鎮圧される。シュテンネスは党の指導者を原則の裏切り者として非難することによって自身の行動を正当化した。反乱の失敗後、ベルリンにおける彼の影響力は弱まり、ベルリンのSS指導者クルト・ダリューゲとレームの側近のエドムント・ハイネスが頭角を現し、シュテンネスと彼の支持者は党から除名された。 除名後、シュテンネスは対抗組織として国民社会主義ドイツ闘争運動体(NSKD)を組織する。
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