シュテルンの死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/13 10:07 UTC 版)
「アヴラハム・シュテルン」の記事における「シュテルンの死」の解説
その後、シュテルンは賞金首に掛けられ、指名手配のビラが国中に張り出された。シュテルンは折りたたみ式ベッドの入ったスーツケースを片手にテルアヴィヴの隠れ家を転々とし、レヒのメンバーのモシェとトヴァ・スヴォライの小さなアパートを借りることとなった。だがモシェとスヴォライはイギリス警官が他の隠れ家を捜索している際に捕まってしまう。この時、銃撃を受けモシェともう一人が負傷、二人のレヒメンバーが死亡している。1942年2月12日、ハガナーから連絡係を通して書簡が送られた。内容は、もしシュテルンがイギリスに反抗するのを止め投降すれば、大戦中は住居を保障するというものであった。これに対しシュテルンの返事は拒否どころか、レヒとハガナーで協力してイギリスと戦おうという提案であった。そのわずか2時間後、シュテルンの隠れ家はイギリス当局に発見され、ジェフリー・モートン(英語版)と2名の警官に踏み込まれた彼はその場で手錠を掛けられた後、背後から撃たれ息絶えた。シュテルンはギヴァタイムのナハラト・イツハク墓地(英語版)に埋葬された。 シュテルンの記念日には毎年政府関係者らが参加し、1978年には彼の肖像は切手になっている。彼の息子ヤイールは彼が暗殺された数ヵ月後に生まれ、イスラエルのTVのベテランニュースアンカーとして活躍している。 彼のニックネームから取ったコハヴ・ヤイール(ヘブライ語: כוכב יאיר 、英Kokhav Ya'ir)という名が1981年に誕生した町につけられた(コハヴは「星」を意味する。コハヴ・〜という名の集落は他にも存在するが、この場合はドイツ語のStern=星にも掛けたネーミングである)。
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