党宣伝全国指導者
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「ヨーゼフ・ゲッベルス」の記事における「党宣伝全国指導者」の解説
1929年1月9日には第3代宣伝全国指導者(ナチ党宣伝部長、初代はグレゴール・シュトラッサー、二代はヒトラー)となり、党の最高指導部に列した。 ゲッベルスは宣伝・運動の面においては左翼政党の方がはるかに優れているとの認識に立ち、彼らのやり方を手本とすることをためらわなかった。シュプレヒコール、楽隊行進、職場での宣伝活動、街頭細胞システム、大衆示威行為、戸別訪問などを左翼政党から引き出し、これらをヒトラーがミュンヘンで確立した運動スタイルと和合させた。敵から限りなく学んで吸収するスタイルはかつての保守派には見られない国家社会主義独自のスタイルといえた。 1929年6月にはドイツの新しい賠償支払い方式ヤング案が成立した。ゲッベルスはヤング案を激しく批判し、『デア・アングリフ』で次のように宣言した。「君ら(政府)が何に署名しようと、我々としてはそれに拘束されるつもりはない」「我々は厳かに手を挙げる。汚れなき手を、歴史の前に。そして誓う。この手が屈辱的条約を破る日まで、我々は決して気を緩めはしないと」。 ヤング案についてはナチ党の他にも保守政党ドイツ国家人民党や退役軍人組織鉄兜団などが強く反発していた。ヒトラーと国家人民党党首アルフレート・フーゲンベルクの会談が行われ、その結果、ナチ党・国家人民党・鉄兜団の三者は反ヤング案・反政府で共闘することとなった。ゲッベルスはそれまでフーゲンベルクのことを「反動の手合」と呼んで攻撃を繰り返してきたが、ヒトラーのこの決定に対して異議は唱えなかった。フーゲンベルクは無数のメディアを支配する大実業家であるため、ゲッベルスとしても一時的に相乗りするのは悪くないと考えていた。とはいえ保守政党と組むのはゲッベルスの性に合わないところでもあり、彼は『デア・アングリフ』で次のように念を押している。「我が党と同じ手段をとっている他の政党があるが、それらは世界観から見て我々とは深淵で隔てられているのであって、手段を同じくするからと言ってゴールまで同じではない」。 いずれにしてもこの連携のおかげでゲッベルスはフーゲンベルクから巨額の資金と彼の支配するメディア群の提供を受けることができた。ゲッベルスはそれを使って大々的なヤング案反対運動を行ってナチ党の存在を世に知らしめた。ヤング案をめぐる国民投票は1929年12月22日に行われたが、ヤング案反対票はわずかに580万票だった(可決には2000万票が必要)。だがゲッベルスにとってそれはどうでもよかった。これが負け戦なのは百も承知であり、大事なのはこれによって普通なら数百万マルクはかかるであろうナチ党の宣伝をただで行うことができたことだった。実際に国民投票の一月前の11月17日に行われたベルリン市議会選挙でナチ党は20%を上回る議席を手に入れている。 ゲッベルスは国会議員不可侵権を有していたが、1929年12月にナチ党議員団が一丸となって国会から出ていく事件があり、この際に一時的に不可侵権を失い、1928年10月に突撃隊員を使ってベルリンのユダヤ人商店街を襲撃させた件で起訴された。ゲッベルスは裁判で検事や判事を散々に罵倒したが、結局2000マルクの罰金刑に処された。この事件がきっかけとなり、リベラル派の間でナチ党に対する警戒感が徐々に高まりはじめた。
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