党大会一覧とは? わかりやすく解説

党大会一覧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 05:07 UTC 版)

ナチ党党大会」の記事における「党大会一覧」の解説

回次日程開催地大会のスローガン備考1 1923年1月27日-29日 ミュンヘン なし 12か所での公開党大会となった。本大会1月28日行われ、ここでヒトラーは自らがデザインした突撃隊旗を突撃隊の各連隊託し、これは後の党大会まで受け継がれる慣例となった。 2 1926年7月3日-4日 テューリンゲン州ヴァイマール 当時テューリンゲン州ヒトラー演説許可していた数少ないであった為、会場選ばれた。。この党大会ではクルト・グルーバー率いザクセンナチ党青少年組織大ドイツ青少年連合」を「ヒトラー・ユーゲント」と改称し、党唯一の青少年組織定めたミュンヘン一揆失敗による党の解散、そして1925年党再建後初の党大会であり、ナチ党復活世間アピールする意味が大きかったナチ党はこの時点では弱小政党に過ぎなかったが、それでも3500人ほどの突撃隊行進行いヴァイマールでの党大会締めくくった。 3 1927年8月19日-21日 ニュルンベルク およそ2万人の党員参加した21日演説ヒトラーは「ドイツ民族には生存圏が必要であり、それは力による領土拡張によってのみ実現される。しかしドイツ3つの忌むべき思想国際主義民主主義平和主義によって力を奪われてしまった。この邪悪三位一体ユダヤ人創造した物である。」と述べ生存圏概念反ユダヤ主義結び付けた。 - 1928年 - 資金不足により開催中止。 4 1929年8月1日-4日 ニュルンベルク この大会をもとに同年プロパガンダ映画Der Nürnberger Parteitag der NSDAP』が製作された。この大会中起こったドイツ共産党員とナチ党員との激し衝突のため、1930年1931年大会の開催ニュルンベルク市当局禁止された。 - 1931年10月17日-18日 ブラウンシュヴァイク 突撃隊集会という形で行われた。 - 1932年 資金不足により開催中止。 5 1933年8月30日-9月3日 国家党大会広場(ニュルンベルク・ルイトポルトハイン(Luitpoldhain) 勝利大会 政権獲得後最初党大会であり、ヴァイマル共和政との戦い勝利したことから「勝利大会」と名付けられた。32万人から40万人人々参加した。この大会レニ・リーフェンシュタール記録映画として収め、『信念の勝利』というタイトル公開された。初日8月30日ヒトラーニュルンベルクを「帝国党大会都市」と宣言した1927年党大会最初にニュルンベルク開催したのは、ドイツのほぼ中央位置すること、野外イベント適したルイトポルトハインという公園があること、ニュルンベルクナチ党組織大管区指導者ユリウス・シュトライヒャーのもとでよく組織されていたためその組織力をあてにできたこと、現地警察ナチ党好意的であった等の条件揃っていたた為である。政権獲得後ニュルンベルク党大会開催地となることは、かつて当地神聖ローマ帝国第一帝国)の中心地のひとつで、皇帝カール4世の「金印勅書」(1356年以来1543年まで帝国議会開催された街であった伝統結び付けられ理念的正当化されるようになった。 6 1934年9月4日-10日 統一力の大会 この大会からアルベルト・シュペーア発案夜間の130基の対空サーチライトによるライトアップ効果的に使用された。これは当時会場全体完成していなかったため、ライトアップにより「光の大聖堂」(Lichtdom)を作って威容を補うことを意図したものだった。サーチライトを提供させられ空軍ヘルマン・ゲーリングは、空軍備蓄のほとんどを使うことになると猛反発したが、ヒトラーは「他国は、ドイツにはこんなこともできるくらいサーチライトがあり余っているのだと思い込むだろう」と説得した。「光の大聖堂」は演出上、非常に効果的であったので以降党大会においても毎年実施されることになったレニ・リーフェンシュタールがこの党大会記録映画収め『意志の勝利』名付けられ公開された。当初ナチ党大会にはテーマ存在していなかったが、後に「統一力の大会」、「意志大会」などと名付けられるようになった。 7 1935年9月10日-16日 自由の大会 ドイツ再軍備宣言によりヴェルサイユ条約軍事制限条項破棄しヴェルサイユ体制からの解放、自由を記念するため、「自由の大会」と名付けられた。大会開催中9月13日ヒトラーユダヤ人から公民権を奪う法律急遽策定する旨を内務省命じ2日後9月15日ニュルンベルクに緊急招集した国会でいわゆるニュルンベルク法」として可決されユダヤ人市民権を完全に剥奪した。この大会レニ・リーフェンシュタール記録し、主に国防軍による軍事演習中心にした内容となった。『自由の日! – 我らの国防軍』というタイトル公開されナチ党大会記録映画としては最終作となる。 8 1936年9月8日-16日 名誉の大会 ラインラント進駐によりドイツの名誉が回復されたことを記念し、「名誉の大会」と名付けられた。ヒトラーはこの党大会において四カ年計画発表した大会にはイギリス元首相ロイド・ジョージ臨席しており、彼はヒトラー演説党大会美しさ心酔し帰国後にイギリスの新聞に「我が国にもヒトラーのような優れた素質持った指導者欲しいものだ」と寄稿している。 9 1937年9月6日-13日 労働大会 ナチ党政権獲得以来失業率低下していることを記念して労働大会」と名付けられた。この党大会には、日本から秩父宮雍仁親王来賓として臨席している。この大会前年大会模様は、ハンス・ヴァイデマン監督による21分のカラー短編映画『Festliches Nürnberg』として記録されている。 10 1938年9月6日-12日 大ドイツ大会 オーストリア併合アンシュルス)を記念して大ドイツ大会」と名付けられた。 11 1939年9月2日- 平和の大会 ドイツドイツ国民の平和へ意思を表すために「平和の大会」と名付けられていたが、直前第二次世界大戦勃発により開催されなかった。以降党大会戦争のため開かれなかった。

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