党再建後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 03:01 UTC 版)
ヒトラーは出獄後、ルーデンドルフやドイツ民族自由党と袂を分かち、1925年2月27日にナチ党の再結党宣言を行ったが、この際にエッサーやシュトライヒャー(党員番号17番)ら大ドイツ民族共同体メンバーは真っ先に駆けつけて最前列で迎え、エッサーはヒトラーに次ぐ2番の党員番号を手に入れた。再建されたナチ党でも宣伝全国指導者に任じられた。 エッサーはシュトライヒャーとともに、褐色館におけるヒトラーに最も近い側近であり、北ドイツ・ナチ党指導者のグレゴール・シュトラッサー、オットー・シュトラッサー兄弟、ヨーゼフ・ゲッベルスなどのナチス左派からは嫌われた。シュトラッサーはエッサーの宣伝活動や、シュトライヒャーの『シュトゥルマー』の記事について「恐るべき低水準」と批判した。エッサーは暴力沙汰でしばしば逮捕されたり、多くの女性と関係を持ち、貢がせていることを公然と自慢するなど醜聞が絶えず、そういった面でも嫌われていた。遂にはある実業家の娘への暴行事件を起こすに及んで、ヒトラーも彼と距離をとるようになった。ゲッベルスは1926年5月8日付の日記に「ヒトラーはエッサーと手を切った。ありがたい。お偉方に交じっていた悪党が一匹減った。」などと書いている。エッサーはシュトライヒャーとも対立するようになり、次第に党内で孤立していった。 1926年、ヒトラーはエッサーを宣伝全国指導者から解任し、北ドイツ・ナチ党の懐柔のためグレゴール・シュトラッサーを後任とした。以降のエッサーは党内における影響力をほとんど失ったが、追放されたわけではなく、1926年から1932年にかけて党関連紙『イルストリーター・ベオバハター(Illustrierter Beobachter)』の編集を任され、また特定の集会では弁士として起用されていた。 ナチ党の議会進出に伴い、1929年にオーバーバイエルン郡評議会議員、党本部を置く重要拠点ミュンヘンの市議会議員団長となる。1932年からはバイエルン州議会議員となった。
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