党内融和と分裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 16:14 UTC 版)
「ニコラス・アベジャネーダ」の記事における「党内融和と分裂」の解説
アルゼンチン大統領に就任したアベジャネーダは、4人の地方出身者と1人のポルテーニョ(スペイン語版)(ポルテーニョとは、アルゼンチンのブエノスアイレス自治都市(CABA)の住民の呼称)、つまりアドルフォ・アルシーナ(スペイン語版)(陸軍大臣)で構成される閣僚内閣を任命した。 1875年、反宗教主義者とフリーメイソンの暴徒が、イエズス会の教父たちの教会を略奪して焼き払った。これは、アベジャネーダがカトリック信者であることを知っていたこともあり、社会の上流階級で反聖職者が増えていたことを暴力的に表したものだった。またブエノスアイレスでは知事選挙が行われ、アベジャネーダの支持を受けた牧場主のカルロス・カサレスが立候補し、ダルド・ロチャ、アリストブロ・デル・バジェ(スペイン語版)、レアンドロ・N・アレム(スペイン語版)ら過激派を破った。 その後アベジャネーダは先述の通り1874年革命の指導者(ミトレスモ(mitresmo)といった、ミトレ主義者の意味)たちに恩赦を与えることとし、サトゥルニノ・ラスピウル(スペイン語版)などのミトレの派閥の人間を閣僚に採用した(ラスピウルは内務大臣)。また、同じくミトレに近いカルロス・テヘドール(スペイン語版)は1878年ブエノスアイレス知事になった。 しかし、1878年1月に陸軍大臣のアルシーナ大臣が亡くなると、この融和は崩れ始める。同年の半ばにアベジャネーダはラ・リオハ州知事を支持したのを受けて、ラスピウルは辞任し、他のミトリスモたちも一緒に辞任した。内務大臣、外務大臣を歴任したサルミエントは、支持層の拡大を目指していたが、最終的には国民自治党に頼ることにした。ミトレは、国民党(Partido Nacionalista)の正式な設立を発表した。ガインサ(Gainza)将軍とテヘドール知事が国民党に参加した。
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