国家人民党党首
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「アルフレート・フーゲンベルク」の記事における「国家人民党党首」の解説
帝政時代には、ブルジョワ自由主義政党である国民自由党に所属していたが、第一次世界大戦後の1918年に保守政党の国家人民党(DNVP)に入党した。同党は、ユンカーと重工業資本家の利益を代表する右翼的、保守反動的な政党であり、フーゲンベルクは実業界、産業界代表としてこの政党に参加した。1919年には国家人民党所属の国会議員となる。国会議員の地位は1945年の敗戦に伴う国会の解体まで保持した。 政府への参加は「議会主義の擁護につながる」として反対し、1927年初頭以降には政府との協力路線をとる党指導部と激しく対立するようになった。フーゲンベルクはメディアの力を使って1928年秋にはヴェスタープ執行部を辞職に追い込んだ。代わって1928年10月20日の党大会で国家人民党党首に選出された。 1929年6月7日にドイツの新しい賠償方式を定めたヤング案が成立。フーゲンベルクはこれに猛反発し、7月9日にはフーゲンベルクを委員長とする「ドイツ国民請願全国委員会」が創設された。国家人民党の他、鉄兜団や全国農村連盟、ナチスなども参加して反ヤング案闘争を行った。 パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領はフーゲンベルクの非妥協的な態度に激怒した。ヒンデンブルクとその側近クルト・フォン・シュライヒャーはフーゲンベルクを国家人民党内で孤立させようと努めたが、フーゲンベルクの党内影響力は絶大であった。しかし前党首ヴェスタープらはフーゲンベルクの対政府強硬路線に反発し、1930年7月の国会解散後に国家人民党を離党して保守人民党(Konservative Volkspartei、略称KVP)を結成した。 1930年9月14日の選挙の結果、国家人民党は73議席から41議席に議席を落とすという惨敗を喫した。一方ナチスは12議席から107議席に増やすという地滑り的勝利を収めた。国家人民党の支持基盤である実業界や農村はフーゲンベルクの融通のきかない強硬路線に嫌気がさして徐々に離れていき、ナチス支持に転じ始めていた。しかしこの選挙後にもフーゲンベルクは政府からの協力要請に対しては賠償の破棄を求めて拒否する姿勢を続けた。 1931年10月には鉄兜団やナチスと共にハルツブルク戦線を結成し、政府に対抗する「国民反対派」の再統一をはかったが、これは国家人民党の党勢を回復しようという意図が強く、ヒトラーは当初より好ましく思っていなかった。そのためまもなくナチスはハルツブルク戦線から離脱して独自路線に戻った。 1932年の大統領選挙には当選の見込みがなかったために出馬を避け、第一次大統領選挙では鉄兜団のテオドール・デュスターベルクを支持した。しかしデュスターベルクは惨敗して第二次大統領選挙への出馬は見合わせることとなった。第二次大統領選挙ではフーゲンベルクはヒトラー支持でもヒンデンブルク支持でもよいとして党員の自由投票とした。 1933年1月にはヒトラーやフランツ・フォン・パーペンとともにクルト・フォン・シュライヒャー内閣倒閣に動いた。パーペンとの交渉でヒトラー内閣に経済相として入閣することが決まった。ナチ党からの閣僚はヒトラーを含めてわずか3人であり、他の閣僚はすべてパーペン派の貴族、および国家人民党や鉄兜団などの保守派だったのでフーゲンベルクはヒトラーを傀儡首相にする自信があったらしく、「我々の手でヒトラーを枠にはめてやる」と述べている。
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