国会の解散までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 14:32 UTC 版)
「1933年3月ドイツ国会選挙」の記事における「国会の解散までの経緯」の解説
1933年1月30日に国民社会主義ドイツ労働者党(以下ナチ党)の党首アドルフ・ヒトラーがパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領より首相に任じられた。しかし内閣発足当初、ナチ党の閣僚はヒトラーの他、ゲーリング(無任所相)、フリック(内相)の3人だけであり、他の閣僚職はヒンデンブルクの側近で副首相として入閣したパーペンが人選し、ドイツ国家人民党(DNVP)や鉄兜団、それ以前の大統領内閣から留任した貴族たちなど保守派で占められた。多数の保守派閣僚で囲い込んでヒトラーを傀儡にしようというパーペンの陰謀だった。 当時ナチ党は国会の第一党であったが、連立与党の国家人民党と足しても国会で過半数を得られていなかった。したがってヒトラー内閣以前の三代の大統領内閣と同様に国会から内閣不信任案を突き付けられる危険性があった。その対策は今まで通り国会無視の大統領緊急令による政治を行うか、総選挙で与党過半数を狙うか、中央党(Zentrum)を与党に引き込むか、ドイツ共産党(KPD)議員の資格を停止するか(共産党議席を停止すればナチ党と国家人民党で過半数になる)のいずれかであった。 ヒンデンブルクが中央党取り込みを希望したため内閣はまず中央党と連立交渉を行ったが、ヒトラーは保守派閣僚による囲い込み状態突破のためにも総選挙に打って出たがっており、一方、国家人民党党首アルフレート・フーゲンベルクもカトリック嫌いと農業と社会政策に関する利害から中央党の政権参加を拒否していた。このような状況のため内閣と中央党の連立交渉は申し訳程度のものとなり、2月1日にはヒンデンブルクに連立交渉は失敗したと報告された。同日の閣議においてヒトラーは総選挙を希望したが、フーゲンベルクはナチ党が大勝して国家人民党の政権内での影響力が低下する恐れがあることから総選挙を嫌がり、共産党を禁止してその議席を剥奪することでナチ党と国家人民党で過半数を得るべきと主張した。しかし結局ヒトラーが押し切って総選挙が行われることになった。 2月1日にヒトラーの要請でヒンデンブルク大統領は国会を解散した。
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