「世界帝国」ドイツと全ドイツ連盟
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「反ユダヤ主義」の記事における「「世界帝国」ドイツと全ドイツ連盟」の解説
1891年、英独の植民地を交換したヘルゴラント=ザンジバル協定に抗議してアルフレート・フーゲンベルク(のちドイツ国家人民党党首)が提唱し、軍人、政治家、実業家などによる全ドイツ連盟(Alldeutscher Verband,汎ドイツ連盟)が結成された。全ドイツ連盟は、汎ゲルマン主義の中心となって、アフリカでの植民地帝国の建設、中央ヨーロッパでのドイツの覇権の確立を要求した。社会学者マックス・ヴェーバー、シュトレーゼマン(1923年に首相)、生物学者ヘッケルやラッツェル、汎ゲルマン主義者チェンバレン、歴史家カール・ランプレヒトも加入した。 ドイツナショナリズムを支えたのは、フランス、イギリス、スラヴへの敵意や恐れ、国内では社会民主主義の脅威、ドイツは堕落したという意識などであった。普仏戦争(1870-71年)で敗北したフランスが復興するとドイツは予防戦争としてシュリーフェン計画を策定した。さらに1894年に露仏同盟が締結されると、ドイツにとって対フランス・ロシアの二正面作戦が現実の課題となったため、軍の増強を図った。保護関税と艦隊建設を軸とした農本主義および全ドイツ主義的な「結集政策」が展開され、次第にドイツ・ナショナリズムは帝国主義へ傾斜していった。この頃ドイツ帝国は極東の中国や日本にも干渉するようになった。またドイツ帝国はイギリス海軍に対抗できるドイツ海軍の拡張を目指し、政府はドイツ艦隊協会を結成して帝国主義を鼓舞した。 1890年以降、ビスマルク崇拝、皇帝崇拝=ホーエンツォレルン崇拝が広まった。1896年に皇帝ヴィルヘルム2は「ドイツ帝国は世界帝国となった」と演説した。同年バルバロッサ神話に基づき、ヴィルヘルム1世を称えてキフホイザー記念碑が建造された。バルバロッサ神話では、第3回十字軍総司令官として出征中に死亡した神聖ローマ皇帝フリードリヒ・バルバロッサが帝国が再興される日までテューリンゲンのキフホイザー近くの山に眠るとされた。また、トイトブルク森の戦いでローマによるゲルマニア征服を阻止したアルミニウス記念碑も建造された。ヒトラーは1914年フランドルの会戦に向かう途中で訪れている。 資本主義の進展に伴い、農村の危機が意識されるようになると、ユダヤ人は農民を根こそぎにしてドイツ民族の最も真正なものを破壊する近代産業文明と同一視された。オットー・ベッケルのヘッセン農村運動、1893年に設立された農業者同盟(Bund der Landwirte)は反ユダヤ的であり、フェルキッシュで反ユダヤ的な運動は農村地域でも浸透していった。ヴィルヘルム・フォン・ポーレンツの小説「ビュットナーの農民」(1895)では、農民がユダヤ人に借金し土地を抵当に入れるが、ユダヤ人はその土地を工場に売り、農民は自殺するという筋書きで、ユダヤ人への反感を扇動した。カトリック文学改革運動のカール・ ムートは、科学・通商・株式・ジャーナリズムが国際的(インターナショナル)であるのに対して、文学・農耕・手工業・芸術は国民的(ナショナル)なものであるとし「ユダヤ人はどこにも家を持たず、従ってまたどこにでも家を持つが故に、凡庸な精神の代表者なのである」と批判した。 1904年から1907年にかけてドイツ領南西アフリカでヘレロ族の反乱をドイツ帝国が鎮圧した時に、ヘレロ・ナマクア虐殺が起こった。
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