中央ヨーロッパで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/08 10:26 UTC 版)
「アーサー・アーストン (イングランド将校)」の記事における「中央ヨーロッパで」の解説
同名の父(アバロン領主アーサー・アーストン・シニア)はプロの軍人で、1610年代のロシア出征時にカトリックに改宗し、ポーランド王ジグムント3世から関心と信頼を勝ち取った。父は1621年のトルコ戦争でポーランド王へ英傭兵2000名を派遣することに同意したが、ポーランド行きのほとんどの兵士はデンマーク海峡で引き返し、アーサー・アーストン・ジュニアは1621年に約300名のイギリスやアイルランド兵をポーランドに上陸させた。彼らは後にポーランド王の親衛隊になった。父は1624年に逝去。 アーストンは1627年に少佐に昇進し、スウェーデン・ポーランド戦争で華々しい戦績をあげたが同年にダンツィヒ(グダニスク)近郊でスウェーデン軍に捕らえられた。アルトマルク休戦協定が締結された1629年、アーストンはポーランドを離れ1631年にスウェーデン王グスタフ2世アドルフからイングランド連隊を編成するよう指示された。翌1632年にブリテン島から連隊が到着されたが、マッカイ連隊などのスコットランド部隊には敵わなかった。連隊は病気などで急速に衰退し、アーストンは面目を保つため新たにドイツ兵を募集した。
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