中央ヨーロッパの後期バロック建築
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 01:49 UTC 版)
「バロック建築」の記事における「中央ヨーロッパの後期バロック建築」の解説
18世紀初頭になると、神聖ローマ帝国、特にオーストリアでは後期バロック建築が最盛期を迎え、後期バロック・ロココ建築が下火になったフランスに代わって、これを牽引するはたらきを担った。 1683年にオスマン帝国を退けたハプスブルク家はフランスのルイ14世様式に匹敵しうる国家建築の構築を目指しており、その中心にあって指導的な役割をはたしたのがヨハン・フィッシャー・フォン・エルラッハであった。彼は様々な歴史的・世界的建築物とローマ建築特有の記念性を総合して国家様式を具現しようと試みた。彼の主要な空間構成は楕円である。彼の傑作のひとつであるウィーンのカールスキルヘや王立図書館は、中心にこの楕円形平面を置き、これに様々な歴史建築物を引用することによって独創的な建築を創造した。ことに王立図書館はゴットフリート・ライプニッツも関心を寄せている。 このように、彼の建築的アプローチはフランスのそれとは全く異なり、むしろベルニーニやボッロミーニの手法を想起させる。これは「オーストリアのヴェルサイユ」と呼ばれるシェーンブルン宮殿の景観において明確である。ヨハン・ルーカス・フォン・ヒルデブラントのシュヴァルツェンベルク宮殿とシュタルヘムベルク・シェーンブルク宮殿の意匠も、同様にローマの初期バロック建築の影響が強い。しかし、彼はベルヴェデーレ宮殿において、イタリア的でもフランス的でもない様々な工夫を凝らしており、オーストリアの後期バロック建築の到達点であると言える。彼らの意匠(特に都市型宮殿の構成)はボヘミアに広がり、プラハはその最も活動的な拠点となった。 オーストリア以外の地域では、フランスやイタリアの影響も受け、また、分割された政治機構のためにより複雑な様相を呈している。「バーバリアン・バロック」とも呼ばれるドイツ語圏のバロックは、しばしば装飾過多であることで知られている。内部空間は柱の垂直線以外は全て曲線・曲面で構成されていることが多いが、これはオーストリア西部でウォール・ピラー方式と呼ばれる構造方法が採用されたことによる。ゴシック建築に見られるように、構造体としての控壁は建物の外側に配置されるのが一般的だが、ウォール・ピラー方式は建物内部に控え壁を突出させることによって複雑な内部空間を形成した。この意匠とグァリーノ・グァリーニの意匠を融合したのがバルタザール・ノイマンやドミニク・ツィンマーマンである。彼らの複雑な空間の中に装飾が取り入れられ、中央ヨーロッパのバロック建築は劇的な空間を作り上げていくことになった。 ミュンヘンにあるザンクト・ヨハン・ネポムク教会堂を設計したエーギット・クィリン、コスマス・ダミアンのアーザム兄弟は、彼らの手法を取り入れて、絵画、彫刻、建築が一体となったきらびやかな空間を作り出した。ミュンヘンには、このほかにドイツにロココ建築を導入したフランス人建築家フランソワ・ド・キュヴィリエの設計した宮廷劇場がある。 ドイツにはこのほかに後期バロック建築の中心地が点在している。ザクセン選帝侯アウグスト強健王によって、マテウス・ダニエル・ペペルマンが建設したツヴィンガー宮殿のあるドレスデン、バルタザール・ノイマンの設計による司教宮殿があるヴュルツブルクなどである。
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