歴史・建築
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1930年(昭和5年)に、江商(現 兼松)横浜支店として、地上4階・地下1階の社屋が建設され、のちに5階部分が増築された。外装はテラコッタタイルで仕上げられ、設計者は不詳だが、帝国ホテルなどを設計したフランク・ロイド・ライトの影響を受けたと考えられている。建物名は「本町旭ビル」から「綜通横浜ビル」に変更され、1993年には横浜市認定歴史的建造物に認定された。1995年には、1階から4階までのファサードを残し、その背後に地上10階・地下2階のビルが建てられた。 オフィスビルとして使用され、毎日新聞社横浜支局などが入居する。 テラコッタタイル仕上げのエントランス。 新築部の躯体はファサードと離れて建てられている。
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歴史・建築
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「日本基督教団一関教会」の記事における「歴史・建築」の解説
1929年(昭和4年)に当時の宮古教会牧師である羽生義三郎が設計思想の中心となり建てられた。建築面積は171平方メートル、木造平屋建、鉄板葺き、外壁は下見板張り、窓は縦に長く上部がファンライト状の曲線、窓枠は下見板を押さえると同時に外壁を立体化し、聖堂正面右側の尖塔が象徴的な意匠となっている。玄関庇も洋風らしさを演出しており三葉形アーチを多用する。当教会は昭和初期当時の教会建築の典型とも言え、「国土の歴史的景観に寄与しているもの」との登録基準を満たしている事から2007年(平成19年)7月31日、登録有形文化財に登録された。
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歴史・建築
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1377年起工、献堂は1383年。起工はパルラー家初代のハインリヒ・フォン・グミュントによって教区教会堂として行われたが、1392年に市民の威を見せるためとして大聖堂並みの規模にするよう設計の変更が行われた。身廊部はおおむね1420年ごろに完成したが、鐘塔の完成は1890年まで待たねばならなかった。完成はこの1890年時点とされている。第二次世界大戦中ウルム爆撃によって市街の多くの建造物が破壊された際にも、大聖堂は破壊を免れた。ちなみに1529年から1844年まで工事は中断されている。 1377年当初の計画ではハレンキルヘとして設計されたが、1392年の設計変更により3廊式のバシリカ式とされた。1397年、ストラスブール大聖堂設計者の一人であったウルリッヒ・エンジンゲンが総監督に選ばれて、彼とその末っ子であるマテウスが1451年すぎまで造成にかかわった。身廊は大アーケードと高窓のみの2層式で構成され、天井までは42メートルで、リブ・ヴォールトが架けられている。16世紀には側廊それぞれの中間に柱列をおき、5廊式とした。内陣は身廊部と比して小さく簡素と評される。15世紀後期制作の内陣座席(Chorgestühl)には、古代のプトレマイオス等の学者・賢人と女予言者(Sibylle)の胸像が付いている。 大聖堂の屋根の棟には「わらをくわえた雀」の像があり、ミュンヘンからドナウ川の源流に旅する途中ウルムに下車した 斎藤茂吉もそのことに言及しているが、これについての伝説は以下のようである。大聖堂の建築を始めると人々は足場を組む木材を取りに森に出かけた。枝を落とした長い材木を6人の男が肩にしたが、歩きやすいように左右に並んだ。しかしその態勢では市門を通過できない。男たちは思案するが名案が浮かばない。その時ひとりの男の子が、雀を指さしてあれを見て! という。雀がちょうど長いわらを巣に入れているところだ。男たちは縦並びに材木を担いで建築現場に運び入れた。ウルムの人々は雀に敬意を表して教会屋根に雀の像をおいたという。 平面図 身廊部 内陣、後陣
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