ヒトラー内閣実現に努力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 07:56 UTC 版)
「フランツ・フォン・パーペン」の記事における「ヒトラー内閣実現に努力」の解説
シュライヒャーへの復讐心に燃えるパーペンは、シュライヒャーとナチ党組織全国指導者グレゴール・シュトラッサーが秘密会談しているのを聞きつけると、その情報をヒトラーに流した。結果、シュトラッサーは党役職の辞職に追い込まれ、シュライヒャーのナチス左派取り込みの目論見は失敗に終わった。1932年12月16日の紳士クラブでの演説でパーペンは、シュライヒャーの退陣とヒトラーの入閣は不可欠であると述べ、シュライヒャーへの敵意をむき出しにした。 さらにケルンの銀行家クルト・フォン・シュレーダー(ドイツ語版)を通じてヒトラーに接近を図った。1933年1月4日にシュレーダーの自宅でヒトラーとパーペンの会談が行われた。両者はシュライヒャー政権打倒、それに代わるヒトラー=パーペン政権の樹立、社民党員・共産党員・ユダヤ人の国家中枢からの排除で合意した。ヒトラーとパーペンの会談を知ったシュライヒャーは激怒し、大統領官邸を訪れてヒンデンブルクに対して自分が同席しない限り前首相とは合わないよう釘を刺した。しかしパーペンをいまだ信用しているヒンデンブルクはこれを無視し、パーペンに独自にヒトラーと接触することを許し、またオットー・マイスナーら側近に対してパーペンとヒトラーの接触があったと分かった時でもシュライヒャーにはそれを伝えないよう命じた。 1月18日と1月22日にもヨアヒム・フォン・リッベントロップの自宅でヒトラーとパーペンは会談した。特に1月22日の会談は大統領官邸長官オットー・マイスナーやヒンデンブルク大統領の息子オスカー・フォン・ヒンデンブルクも同席し、ヒトラーが首相に任命される上で重要な会談となった(無論シュライヒャーには内密の会談)。 1月26日にはパーペンは国家人民党党首アルフレート・フーゲンベルク、鉄兜団団長フランツ・ゼルテ、テオドール・デュスターベルクと会談し、ヒトラー内閣への入閣交渉を行った。デュスターベルクを除く三者はヒトラー内閣に参加することを表明した。1月28日にパーペンはヒンデンブルクから「政局説明担当」特別職に任じられた。パーペンは、オスカーやマイスナーと共にヒンデンブルクにヒトラーを首相に指名しても全く問題なしとヒンデンブルクに説明した。ヒトラーを「ボヘミア人伍長」と呼んで軽蔑していたヒンデンブルクもついにヒトラーの首相任命を承諾した。 一方シュライヒャーは憎きパーペンが中枢となって活躍する政権だけは阻止しようと図り、1月29日に陸軍総司令官クルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルトをヒトラーの下へ派遣して、ヒトラーに協力したい旨を申し出たが、パーペンと組んで政権を作る気であったヒトラーは曖昧に対応した。同日にパーペンはヒトラーと会談を行い、政権掌握後には総選挙を行い、選挙後に全権委任法を可決して独裁体制を樹立することを求めた。ところが国家人民党のフーゲンベルクは自党の影響力の低下を恐れて総選挙を嫌がり、内閣成立が危ぶまれる空気になった。パーペンはヒトラー内閣成立の直前にフーゲンベルクに電話して組閣に時間を食うとシュライヒャーとハンマーシュタインがクーデタを起こす恐れがあるので組閣を急がねばならないと主張して説き伏せ、ヒトラー内閣成立にこぎつけた。
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