ヒトラーや国家社会主義(ナチズム)についてのアラブの認識
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「ナチス・アラブ関係」の記事における「ヒトラーや国家社会主義(ナチズム)についてのアラブの認識」の解説
ジルベール・アシュカルによると、国家社会主義〔ナチズム〕に対してアラブの認識は統一されていなかった。 まず第一に、アラブ民族というようなものは存在しない。単数形のアラブ言説〔the singular form of an Arab discoure〕の中で話すことは、常軌を逸している。アラブ世界は、多様な視点で動かされている。当時の人は、西洋的な自由主義からマルクス主義・国家主義〔ナショナリズム〕・イスラーム原理主義まで広がる、四つの主要なイデオロギー的流れの中から一つを選び出すことができた。これらの四つの中で、明白に国家社会主義〔ナチズム〕を拒絶した二つは西洋的な自由主義とマルクス主義であり、それらの一部は土台が同じだった(例えば啓蒙思想家を受け継いだことや、国家社会主義を人種主義の一種として弾劾したこと等)。また部分的な理由として、それら二つは地政学上の連携もしていた。この論点において、アラブ国家主義〔アラブ民族主義〕は矛盾している。しかし綿密に見ると、ナチプロパガンダと自分自身とを同一視したアラブ国家主義的集団の数が、実はかなり小さいのだと分かる。アラブ世界に存在した国家社会主義のクローンはただ一つだけである。すなわち、レバノンのキリスト教徒アントン・サアデによって設立された、シリア社会民族党しかなかった。青年エジプト党は国家社会主義としばらく一緒にぶらついていたが、これは気まぐれな日和見主義の党だった。アラブ社会主義復興党〔バアス党〕が1940年代初めから国家社会主義に触発されていたという非難は、完全に間違いである。 アラブ世界ではヒトラーや結束主義〔ファシズム〕系のイデオロギーは、ヨーロッパと同様に議論を巻き起こしていたのであり、支持者らと反対者らの両方を伴っていた。 アラブ諸国で大規模な宣伝活動プログラムを開始したのは、最初がファシストイタリアで、その後がナチス・ドイツだった。 特にナチスが焦点を置いていたのは、新世代の政治思想家や活動家へ多大に影響を及ぼすことだった。 エルヴィン・ロンメルは、ほとんどヒトラー同様に人気があった。 伝えられるところでは、「ロンメル万歳」〔"Heil Rommel"〕がアラブ諸国共通の挨拶として使われていた[要出典]。一定数のアラブ人たちは、ドイツ人がアラブ人を、フランスと英国の旧植民地支配から解放すると信じていた[要出典]。1940年にナチス・ドイツによってフランスが敗北した後、ダマスカスの街並みで、フランスと英国人に対してこう唱えるアラブ人たちも居た。「ムッシューはもう終わり、ミスターはもう終わり、天国にはアッラーフだ、地上にはヒトラーだ」。シリアの町々の商店では、「天国では神が、地上ではヒトラーが、あなたの支配者」というアラビア語のポスターが頻繁に貼られていた。 1930年代にドイツへ旅行した一部の富裕アラブ人は、ファシズムの理想を持ち帰って、アラブ国家主義〔アラブ民族主義〕へと取り入れた[要出典]。原理的にアラブ社会主義復興運動〔バアス主義〕思想およびアラブ社会主義復興党〔バアス党〕を創設した人々の一員、ザキー・アル=アルスーズィーが言うには、結束主義〔ファシズム〕と国家社会主義〔ナチズム〕がアラブ社会主義復興イデオロギーへ大きく影響した[要出典]。アル=アルスーズィーの生徒サミ・アル=ジュンディはこう書いている。 我々は人種主義者であり、国家社会主義〔ナチズム〕を崇敬し、ナチの本やその思想の源泉を読んだ。特に、フリードリヒ・ニーチェの『ツァラトゥストラはこう語った』、ヨハン・ゴットリープ・フィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』、人種について思い巡らしたヒューストン・ステュアート・チェンバレンの『19世紀の基礎』を読んだ。我々は、『我が闘争』の翻訳を考えた先駆者だった。当時ダマスカスに住んでいた者は誰でも、アラブの人々が国家社会主義〔ナチズム〕へ傾斜していることを理解しただろう。国家社会主義は勝者としての役目を果たせる力だったし、敗北した者は自然と勝者を愛するからだ。しかし我々は信条ではかなり異なっていた。 積極的にナチスと協力した最も著名な二人のアラブ政治家は、エルサレムの大指導者〔大ムフティー〕であるアミーン・フサイニー[要ページ番号]、そしてイラクのラシード・アリー・アッ=ゲイラニ首相であった。 パレスチナの1936~1939年アラブ革命において指導者アル=フサイニーが果たした役割が理由で、イギリスはフサイニー追放を強制した。元指導者〔フサイニー〕は、代理人をイラク王国とフランス領のシリアおよびパレスチナに備えていた。1941年にフサイニーは、ラシード・アリー・アッ=ゲイラニ率いるイラクのゴールデンスクエア〔黄金方陣〕のクーデターを活動的に支持した。 ゴールデンスクエアのイラク政権が親イギリス派の軍によって敗北した後、指導者ラシッド・アリおよび他のイラクのベテランたちは、ヨーロッパへ避難して、枢軸国の利益を支援した。彼らが特に成功したことは、数十万のムスリムをドイツの突撃隊(SS)のメンバーとして、かつ、アラビア語圏世界でのプロパガンダ扇動者として採用したことだった。その協力活動の範囲は広かった。例えば、後にエジプトの大統領に就任したアンワル・アッ=サーダートの回想録によると、彼はナチス・ドイツのスパイ活動に進んで協力していた。
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