ファシスト・イタリア
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「第二次世界大戦の枢軸国指導者たち」の記事における「ファシスト・イタリア」の解説
イタリア王国(1940–1943)・イタリア社会共和国(1943–1945) ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世はイタリア国王であり、ムッソリーニと共にイタリア王国軍の最高責任者だった。1935年からはイタリア帝国皇帝となった。1922年におけるローマ進軍では、ムッソリーニを支援して首相に任命した。1943年、連戦連敗の末、ピエトロ・バドリオ元帥と共に結束主義政権〔ファシスト政権〕を解体し、ムッソリーニを解任・逮捕して連合国との休戦〔イタリアの降伏〕を取り決め、南イタリアに元帥率いる王国政府を樹立した。 ベニート・ムッソリーニは、1922年から1943年までのイタリア王国の首相だった。結束主義〔ファシズム〕の創始者であるムッソリーニは、国政プロパガンダと組み合わせた国家主義・軍国主義・反共産主義・反社会主義の思想を用いて、イタリアを最初の結束主義国家政府へと変えた。1925年、彼は結束主義の総帥〔ドゥーチェ〕として独裁権力を獲得し、それ以降は結束主義支持者から総帥と呼ばれるようになった。1925年以降、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世がムッソリーニに権限を委譲して、ムッソリーニおよび結束主義国政に反対することは反逆と見なされるようになった。 ムッソリーニ体制はアドルフ・ヒトラーやナチス・ドイツへ影響したが、ムッソリーニはナチ人種論に対して賛同せず、神話的で捏造されたものとして退けた。ヒトラーからの圧力が強まる下で1938年になり、初めてムッソリーニは反ユダヤ主義を国是としたが、ドイツ軍によるイタリア領からのユダヤ人強制送還には反対した。ムッソリーニは、しばしば「黒シャツ隊」と呼ばれる国防義勇軍(MVSN)の公式な総司令官であり、彼らは国王よりもムッソリーニにとりわけ忠実だった。1941年からの軍事的連敗は、1942年のエル・アラメインの戦いと1943年7月の連合軍のシチリア島への侵攻〔ハスキー作戦〕で限界点に達し、ムッソリーニとその政府は国王によって解散・解任された。王令で逮捕されたムッソリーニはドイツ軍に救出され、北イタリアのイタリア社会共和国(ナチス・ドイツ体制下の政権)の傀儡国家元首となった。1945年4月28日、スペインに逃亡しようとしていたムッソリーニは、イタリアの遊撃隊〔パルチザン〕によって処刑された。 ピエトロ・バドリオは元帥だった。第二次エチオピア戦争〔第二次イタリア・アビシニア戦争〕でイタリア軍を率いた。1940年、ギリシャでの敗北後に辞任した。1943年、連合国との休戦協定〔イタリアの降伏〕を結び、南イタリア(ブリンディジ)に王国政府を樹立した。 ウーゴ・カヴァッレーロは第二次世界大戦中のイタリア王国軍の最高責任者であり、その権限は国王から委譲されていた。国王はイタリア王国軍の正式な最高司令官だった。カヴァッレーロはギリシャ・イタリア戦争でイタリア軍を率いたが、軍は酷く低迷した。 イータロ・ガリボルディはスターリングラード攻防戦でのイタリア軍派遣部隊の司令官だった。
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