ファシストの攻撃、閉じ込めとスペイン市民戦争
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「エミリオ・ルッス」の記事における「ファシストの攻撃、閉じ込めとスペイン市民戦争」の解説
彼は正体不明の襲撃者によって負傷をしている。1926年にルッスは攻撃を受け(ムッソリーニがボローニャで攻撃された同じ日)、カリャリの彼の家に完全武装して侵入しようとした襲撃者の一人を撃ち、このファシスト行動隊員が死亡したために逮捕された。『ローマ地区への行進曲』でルッスは、カリャリにいた完全武装したすべてのファシスト、その分隊のカリャリ人は、警察と憲兵と共謀し、彼の家のドアを打ち破ったところで発砲したと、殺すことになった人には残念だが、悲喜劇の手法によりこのエピソードについて語っている。ファシスト化状況にあって、彼は正当防衛であったと裁判では判断された。 同時にファシズムは君主制の支持を得て、サルデーニャ行動党を含むすべての野党を廃止した(勅令1848/26)。ルッスはファシスト直轄の国家防衛特別裁判所から、リーパリに5年の流刑を言い渡される。 流刑中の1929年に、社会主義者イタロ・オクシリアの助けで、カルロ・ロッセッリとフランチェスコ・ファウスト・ニッチを、モーターボートでチュニスに送り届ける。逃亡者達はパリに着き、ルッスはこの10年のことを本に書き(『鎖 La catena』)、ニッチは逃亡の道行きを語り(『我らの牢獄 Le nostre prigioni』)、これらは1946年になってイタリアで刊行された(最初の刊行は1929年英語版『逃亡 Escape』)。 1929年8月には、カルロ・ロッセッリとその兄のネロ、ルッス、フランチェスコ・ファウスト、ヴィンチェンツォ・ニッチ、ガエターノ・サルヴェミニ、アルベルト・タルチアーニ、アルベルト・シアンカや、他の亡命者の主導で、パリのモンマルトルのデュノルド・ド・シャンパーニュ・ホテルで反ファシスト運動「正義と自由」を結成、彼らはすべて思想的には自由社会主義を志向しており、共和党式の反ファシズムだった。「正義と自由」はファシスト政権を転覆させ、イタリア社会の要因(文化的、経済的、政治的)を根絶する、革新的な方法を提案した。ルッスは「ミスター・ミルズ」のコード名で秘密の活動をした。 1931年に彼は、 パリから逃亡するまでに見てきた戦後の中心人物についての「ローマ地区への行進曲」を書いた。1936年、反フランコとしてスペイン市民戦争に一時参加したが、貧しい人々のためにコローナ・イタリアーナ・ロッセッリの政治的指導者となった。その後結核の治療のためにスイスで隔離状態にされ、ハンドブック『反乱の理論』及び著名な『戦場の一年』を書いた。 ロッセリ兄弟殺害(1937年)の後、ルッスは社会主義に大きな足跡を残した「正義と自由」運動の指導者を引き継いだ。これには、反対意見や多くの離脱を生み、そこにはアルベルト・タチアーニも含まれる。亡命中の1938年、彼は後に二番目の妻となるジョイス・サルバドーリと出会う。 ドイツ軍がフランスに侵入すると、ルッスは1940年6月にフランスを離れて、ポルトガル、次いでイギリスへ去らざるを得なくなる。その間イタリアでは「正義と自由」のいくつかのグループが1942年6月4日に行動党(ジュゼッペ・マッツィーニの1853年の党名にちなんで命名)を設立、彼はフェルッチョ・パッリとウーゴ・ラ・マルファの二人を特に推薦していた。 ルッスがイタリアに戻ったのは1943年8月12日で、行動党に参加、ローマのレジスタンスに加わった。「正義と自由」が「行動党」への統合は1943年10月29日に承認され、「南部中央行動党」のアルムンジャの政治家は、「正義と自由」と「行動党」が一つになることで、「正義と自由」が無くなってもピエトロ・バドリオ首相と君主制に協力するのではないと書いている。 首都が解放された後、ルッスはサルデーニャ行動党を「行動党」の所属に再構成した。
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