ファシスト党との関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 14:20 UTC 版)
「ガレアッツォ・チャーノ」の記事における「ファシスト党との関わり」の解説
1922年、国家ファシスト党によるクーデター(ローマ進軍)が行われた時、退役軍人としてファシスト党の顧問を務めていた父コンスタンツォ伯も進軍に関与していた。父を通じてファシスト党による独裁を進めるベニート・ムッソリーニ国家統領に接近し、1930年4月24日にムッソリーニの長女エッダ・ムッソリーニと結婚して娘婿となった。エッダとの結婚は自由恋愛によるもので、両家の政略結婚などの性質は持っていなかった。しかし結果的に岳父の威光によって上海総領事の地位を与えられて省内での地位は盤石となった。チャーノとエッダは共に奔放な性格で双方が公然と愛人を持っており、エッダは特に満州軍閥領袖の張学良将軍に夢中だったとされるが、夫婦仲は良く強い絆で結ばれていた。 総領事着任後は1932年の第一次上海事変に際しては日中両軍の調停に奔走した。任期を終えて祖国に帰任した後も1933年に新聞・宣伝省次官、1935年に同省大臣などを若くして歴任、ファシスト四天王のイタロ・バルボ空軍大臣と並んでムッソリーニの後継者候補として扱われていた。1935年の第二次エチオピア戦争においては自ら空軍に義勇兵として志願し、危険な爆撃行に参加して武功黄金勲章(英語版)を名誉的に受勲するなど派手なパフォーマンスを好んで行った。また国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の長男であるイタリア王太子ウンベルトの信任も篤かった。この2人の友情関係はそれぞれの父、国王エマヌエーレ3世とムッソリーニ国家統領にとっても建設的で有意義なものと見做されていた。なぜならそれは王室とファシスト政権との微妙な関係の強化に寄与したし、やがて若い2人がそれぞれ国王と政権担当者として次世代のファシスト・イタリアを率いる可能性がこの時点では存在したからである。
※この「ファシスト党との関わり」の解説は、「ガレアッツォ・チャーノ」の解説の一部です。
「ファシスト党との関わり」を含む「ガレアッツォ・チャーノ」の記事については、「ガレアッツォ・チャーノ」の概要を参照ください。
- ファシスト党との関わりのページへのリンク