緊張の激化
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第二次世界大戦中にナチス・ドイツやファシスト・イタリアなどを含む黒海諸国以外の軍艦や民間人の船員の海峡通過をトルコが認めたことをめぐり、ソ連とトルコの間では緊張が高まった。連合国によるナチス・ドイツ打倒後、ソ連は1945年と1946年に海峡問題に復帰し、1946年を通じてアメリカ合衆国とトルコの外交官は問題について頻繁に協議を重ねた。1946年4月6日のアメリカの戦艦ミズーリ号来航は、ソ連をさらに憤慨させた。その戦艦は故トルコ大使の自宅の骨壺を運んでいるという説明の下ににそこへ来ていたが、その主張は同時にソ連によって退けられた。
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緊張の激化
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「ブタ戦争 (サンフアン諸島)」の記事における「緊張の激化」の解説
オレゴン省長官のウィリアム・セルビー・ハーニー准将(アメリカ)はまず、サンフアン島へのイギリス人の上陸を阻止するため、第9歩兵連隊からジョージ・ピケット大尉指揮の下66名のアメリカ兵を派遣した。イギリスはアメリカ人不法居住者がサンファン島を占領し始めることを憂慮し、アメリカを牽制するためにジェフリー・ホーンビー大佐に指揮させ3隻の軍艦を送った。状況はエスカレートし、1859年4月10日までにサイラス・ケイシー大佐指揮の14門の大砲を装備した461名のアメリカ兵と、70門の銃砲と2,140名の兵を載せた5隻のイギリス軍艦とが対峙した。しかし、この間砲門が開かれることはなかった。 バンクーバー島植民地総督ジェームズ・ダグラス(イギリス)はイギリス海軍少将ロバート・ランバート・ベインズに対し、イギリス海兵隊をサンフアン島に上陸させ、ハーニー指揮下のアメリカ軍を攻撃するよう命じた(ハーニーの部隊は1859年7月27日以来島を占領していた)。ベインズは、「2つの大国が、たかが一匹のブタのことで争うなどバカげている」と断じ、命令を拒否した。現地の両軍指揮官はそれぞれ同様の命令を受けており、それは「自衛せよ。ただし絶対にこちらから先に発砲してはならない。」というものだった。数日の間イギリス軍およびアメリカ軍兵士は罵声を浴びせあって相手を刺激し、先に発砲させようとしたが、両軍の規律は保たれ、発砲されることはなかった。
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