緊張の増大
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「フィリピンの歴史 (1898年-1946年)」の記事における「緊張の増大」の解説
スペインはアメリカを苦しめる目的で1898年に反乱軍にイロイロ州を譲っていた。1899年1月1日、アメリカ軍が「ルソンの中央政府からの緊急命令」を求めて上陸したと主張する「ビサヤスの連邦政府のロペス大統領」を自称するフィリピン当局者により上陸を拒否されたとの報道がワシントンにもたらされた[要説明]。1898年12月21日、マッキンリー大統領は好意的な融合宣言(英語版)を発した。オーティス将軍は1899年1月4日まで発表を遅らせ、抑制のきかない状態で存在する「主権」や「抵抗」、「停止権」という用語の意味を伝えないように編集した修正版を公表した。オーティスには伝えずに戦争省も伝達目的でイロイロ州のマークス・ミラー将軍に好意的な融合宣言の暗号文を送っていた。ミラーは配布目的のものであり政治的に不穏当な個所を削除した文がアギナルドに送られたとは知らずに結局アギナルドに伝わるスペイン語とタガログ語の両方に翻訳されて発表した。変更のない方を受け取りオーティスから受け取った文の変更に気付く前でさえオーティスが自身の肩書を「在フィリピン軍事総督」から「フィリピン軍事総督」に改めたことに憤慨していた。アギナルドはオーティスがワシントンからの権限なしに行った変更の重要性を見失わなかった。 1月5日、アギナルドはアメリカの友情の倫理違反として特にイロイロ州の事件に関して見たものを要約した反対の宣言を発した。宣言ではアメリカによるビサヤスの奪取は戦闘に繋がると述べた。宣言の写しが配布されると、アギナルドは配布されなかった写しの回収を命じ、同日直に「この群島の主権」に対するアメリカの侵害に抵抗する別の宣言を行った。この二つの宣言を武力行使の呼びかけと捉えたオーティスは、アメリカの監視体制を強化し、部隊に警告した。緊迫した雰囲気の中で約4万人のフィリピン人が15日間にマニラを脱出した。 一方でフェリペ・アゴンシリョ(英語版)は外国と条約を交渉する閣僚級全権大使としてフィリピン革命政府により委任されパリでアメリカ合衆国とスペインの交渉に加わることに失敗し、現在はワシントンにいた。1月6日、フィリピンにおける問題を討議するために大統領に面会する要請を提出した。翌日政府は反乱軍と穏やかに合意し戦乱に進まないためにオーティス将軍への伝言がアゴンシリョの知るところとなったことを知り驚きアギナルドに電報を打った。同時にオーティス将軍が「フィリピン軍事総督」と自称することにアギナルドが抵抗することになった。ロンドン、パリ、マドリードのフィリピン委員会と共にアゴンシリョは、フィリピンがアメリカの主権下に置かれることを拒否することを記したアメリカ合衆国への声明を発した。 一人が殺されたイロイロ州でのアメリカの警備隊に対する攻撃の報告は、1月8日にアメリカ合衆国で公表された。1月10日までに反乱軍は[要説明]攻撃を確かなものにする準備ができていたが、可能ならアメリカ側に最初の一撃を加えさせることを熱望した。戦乱に関して願望を隠すことはなかったが、非友好的な示威行為を増大させ禁断の領域に前線を進めた。このような挑発行為は増援部隊が到着するまでアメリカは延期すると信じるアギナルドの承認があった。1899年1月31日、革命的なフィリピン第一共和国内務大臣テオドロ・サディコは、アメリカとの戦争がいまにも起こりそうだとの観点からアギナルド大統領は使用されていない土地は全て人民に食糧を供給する土地にすべきだと指示したとする布告に署名した。
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