緊張の始まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 14:42 UTC 版)
1558年、阮汪の弟の阮潢(Nguyễn Hoàng)は清華の遥か南、チャンパの旧域であった里州(現在のクアンビン省・クアンナム省)の鎮守に任じられ北部から追われた。阮潢の里州統治は富春(現在のフエ)から始まり、阮潢を当主とする阮氏は、鄭氏が北部で戦乱に対処する間にじわりじわりと南部へ支配域を拡張していった。阮潢は北部の戦いで鄭松に協力しながら、独立的な統治のもとで広南をますます安定させていき、まるで南部の支配者のようになっていった。これが広南国の始まりとされる。 1592年、東都は鄭松によってついに奪還され、莫朝の皇帝の莫茂洽(中国語版)も処刑された。その翌年、阮潢は莫氏の残党狩りを援助するために軍資金と兵を用意し北部を訪れた。しかしすぐに、鄭氏の専横する朝廷の命令に従うことを拒否した。阮潢にとって、鄭松による朝廷の私物化は看過できないものとなっていた。 1600年、敬宗が皇帝に即位した。敬宗はそれまでの皇帝と同じく、鄭氏(その権力から「鄭主」と呼ばれる)の傀儡であり何の力も持たなかった。それだけでなく、寧平(現在のニンビン省)では鄭松の扇動によると思われる反乱が巻き起こった。これらの結果、阮潢は「もはや後黎朝は皇帝のものに非ず。鄭氏の私物である」として朝廷との関係を断った。この不安定な情勢は、1613年の阮潢の死まで13年続いた。阮潢の南部統治は55年に及び、その後さらに150年続く阮氏による南部支配を決定づけた。 阮潢の後継者となった阮福源(Nguyễn Phúc Nguyên)は、東都の朝廷からの独立性を保つという阮潢の政治方針を受け継いだ。阮福源はこの頃来航していたヨーロッパ人達と親密な関係を築き、ポルトガルとの貿易所が会安(現在のホイアン)に設けられた。1615年にはポルトガル人技術者の援助を受け、青銅製の大砲を製造した。1620年に敬宗が鄭松により自決に追い込まれ神宗(ベトナム語版)が即位すると、阮福源は公式に神宗を認めないと宣言し、もはや東都に南部からの税が納められることはないであろうと公言した。南北の緊張は高まり、7年後の1627年には鄭氏の新しい当主の鄭梉(ベトナム語版)との間についに戦争が勃発した。 鄭梉の方が支配領域・人口で勝ってはいたが、阮福源の方に分があった。まず第一に、阮福源はほぼ防御に徹し、北への遠征を行わなかった。第二に、阮福源はヨーロッパ勢力、特にポルトガル人との交流に強みを持っていたため、西欧の技術者の力を借りて砲などの洋式兵器を生産することができた。第三に、地勢が阮福源に味方した。阮氏の支配域と鄭氏の支配域の境である中北部は山脈が海に迫る狭隘な土地で守るに易かったからである。 鄭梉による最初の4ヶ月の攻勢の後、阮福源は日麗江(ニャッレー川(英語版)、現在のドンホイ周辺)と香江(フォーン川(英語版)、現在のフエ中心部)の間の二箇所に、海から山岳地帯まで続く高さ6メートル・幅10kmに及ぶ堅固な防壁(中国語版)を築いた。阮福源の築いたこの防壁は1631年から1673年の間に、鄭氏が遣わした軍勢の攻撃を幾度も撃退した。1673年に阮福瀕(英語版)(Nguyễn Phúc Tần)と鄭柞の間で和約が結ばれたが、この停戦が更なる100年の分断時代を決定づけた。
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