インドとパキスタンの交渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 07:02 UTC 版)
「インド・バングラデシュ国境の飛地群」の記事における「インドとパキスタンの交渉」の解説
1950年代以降、インドとパキスタン政府(バングラデシュ独立後はバングラデシュ政府)は、このあまりに不便な飛び地の状況を改善しようと、交渉を続けた。1950年に飛び地への役人や警察官の立ち入り、生活必需品の輸送についての規定が定められたが、両国政府の緊張の激化に伴い、 1~2年でこの規定は実行出来ない状態となった。その後、1957年にインドとパキスタンの間で、飛び地付近での週2日の国境貿易が認められるようになったが、そもそも飛び地の中に相手国の領事館などがなくビザもパスポートも取得できなかったため、飛び地から合法的に越境することができず、住民は国境警備隊に射殺されるなどの危険を冒して違法越境せざるを得ない状態におかれた。 1958年にはインドとパキスタン政府の間で領土交換が合意されたが、飛び地の住民の反対と、インド最高裁判所が領土交換には憲法改正が必要との判断を下したため、実行されなかった。1974年にもインドとバングラデシュ政府の間で再び領土交換が合意されたが、インド側の面積が29km2あまり減る内容であったため、インドの国会で野党に反対され、これも実行されなかった。1980年には、違法越境を減らすために飛び地がフェンスで囲まれたため貿易量が減り、飛び地の住人はさらなる貧困に晒された。 1996年に、1974年と1982年に合意された協定に基づいてバングラデシュ領の最大の飛び地に本土との回廊(ティン・ビガ回廊(英語版))が設けられたが、回廊設置に反対する住人同士の衝突により犠牲者が出たほか、回廊そのものも8時間置きにインド人とバングラデシュ人の往来を切り替える方式であったため、あまり便利なものとは言えなかった。また、住人によっては回廊の設置によって近所のインド領に行く許可が降りなくなり、回廊を通って遠くのバングラデシュ領に行かなければならなくなるなど、却って不便が増すケースすら発生した。
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