インドとスキタイへの遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 15:44 UTC 版)
「ダレイオス1世」の記事における「インドとスキタイへの遠征」の解説
財政的な余裕を得たダレイオス1世は、かつてスキタイ人がメディアと小アジアを席巻したことへの報復としてスキュティアへの遠征を思い立った。ダレイオス1世の弟アルタバノスはこの遠征の困難を訴えて制止したが、ダレイオス1世は攻撃を強行した。紀元前513年頃、ダレイオス1世がダーダネルス海峡を越えると、トラキア地方の諸族は戦わずして降伏し、唯一抵抗したゲタイ人も瞬く間に征服された。その後、ダレイオス1世の軍勢は黒海の海岸沿いに北上したが、黒海北岸のスキタイ人本拠地への攻撃は、スキタイ人の焦土戦術の前に大きな損害を出して撤退を余儀なくされた。ヘロドトスの記録にはドナウ川を渡河した後、橋梁の建設の記事がないことから、ダレイオス1世の軍勢は少なくともドニエストル川に到着する前に撤退したと推定されている。この時確保したトラキアは後のギリシア遠征への足掛かりとなった。 東方ではインダス川流域へも遠征が行われた。ダレイオス1世によるインダス川流域の征服がいつ頃行われたのかは不明である。ペルセポリスの碑文と、ナクシェ・ロスタムの碑文にインド人(ヒンドゥ)がガンダーラ人と共に臣民として数えられていることから、紀元前516年からダレイオス1世の没年までのある時期に征服されたと推定されている。この遠征に先立ち、ダレイオス1世はカリュアンダ 人スキュクラスにインダス川流域の探検と河口の確認を命じ、更にインドからエジプトへの航路を確認させた。ダレイオス1世が征服したインドが実際にどの地方だったのか、正確なことはわかっていない。パンジャーブ地方の大部分を含んでいたとも考えられるし、インダス川の両岸地区を河口に達するまで支配した可能性もある。ただし、実際に征服された範囲がどの程度であったにせよ、インドはアケメネス朝の版図の中で最も税収の多いサトラペイア(ダフユ)となった。ヘロドトスによればインドはアケメネス朝の第20徴税区であり、砂金360タラントンを納入していた。これはインド以外の全てのサトラペイアの合計に匹敵したという。
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