インドとの対立、滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/03 08:13 UTC 版)
「シッキム王国」の記事における「インドとの対立、滅亡」の解説
1963年、タシ・ナムゲル王が崩御し、息子のパルデン・トンドゥプ・ナムゲルが王位を継承すると、情勢は変化した。パルデン・トンドゥプはインドの保護下に置かれるシッキムの現状に不満を抱き、タシ王の親インド路線を転換して独立追求路線に転じ、公的な場でインド・シッキム条約改正やシッキムの自国軍事力増強を強く主張し、インド政府にもその要求を伝えた。 パルデン・トンドゥプ王は王室を支持するブティヤ・レプチャ系のシッキム国民党(SNP)を支援し、反インド、シッキム独立の政治路線へと転換したため、インドは親インド派でネパール系政党のシッキム国民会議派(SNC、1960年結成)などを支持するようになった。参事院選挙制度は何度か改正されたが、コミュナル選挙制度の原則は変わらなかった。 そしてついには、反印運動の盛り上がりや他党の足並みの乱れを突く形で、1973年参事院選挙でSNPが選挙議席18議席中11議席を占める勝利を収める。しかし、この勝利はもちろんコミュナル選挙制度の恩恵によるものであり、SNCなどのネパール系政党が「不正選挙」と糾弾したことで、デモや武装蜂起が全国規模で発生した。混乱を収拾する力の無かったパルデン・トンドゥプ王はインドの保護を求めて事態を乗り切ったものの、この結果、シッキムはSNCなどの政党と共に、従前以上のインド属国化を強化する「インド・シッキム三者協定」に署名させられたのである。 三者協定に基づき、参事院に代わってシッキム立法議会(英語版)(選挙議席30)が創設され、1974年に選挙が実施されることになった。すでに三者協定成立直後には、SNCなど親印のネパール系政党が合併してシッキム会議派(SC)を結成している。インド型の単純小選挙区制が新たな制度として導入されたこともあり、人口構成で優位なSCが29議席を占める圧勝を収め、SNPは僅か1議席へと転落した。新たに首相に就任したSC総裁のカジ・レンドゥプ・ドルジは、インドの意を受けて国王の権限を大幅に制限する新憲法を制定した。これが、1974年シッキム統治法である。 1975年4月9日、パルデン・トンドゥプ王の退位を求めるデモ隊に王宮軍が発砲した混乱を収束させるためにインド軍が侵攻、王宮軍は武装解除され、パルデン・トンドゥプ王は幽閉された。翌日に立法議会は王政廃止とインドへの編入を全会一致で議決、14日に行われた国民投票でもインド併合が承認された。 15日には、シッキムをインドの第22番目の州とする憲法改正案がインドの国会に提出され、26日に両院を通過した。同年5月16日、大統領が憲法改正案を認証し、ここにシッキム王国は滅亡、シッキム州としてインドに編入された。
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