インドと「アーリア人」の発見とは? わかりやすく解説

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インドと「アーリア人」の発見

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:19 UTC 版)

反ユダヤ主義」の記事における「インドと「アーリア人」の発見」の解説

啓蒙思想進展によって、ユダヤ教とキリスト教的な世界観から徐々に抜け出していくとともに人類文明発祥土地としてインド浮上していった。 フランス東洋学者アンクティル=デュペロン(1731-1805)は「アーリア人」をヘロドトスから取ってペルシア人メディア人を指すために用いていた。 文化的多元主義ヘルダー民族の形成には地理的条件歴史的条件があるため、どのような民族も神に選ばれということはできないユダヤ民族選民思想否定し、また「自称神の唯一の民」もドイツ人選民ではないとした。しかしヘルダールター派であり、歴史は神によって統制され文明東から西向かって進展しているので必然的に文明ヨーロッパ集中しているのであり、ヨーロッパ優位にあるとした。またシナ人ユダヤ人のように他民族との混合免れたために幼いまま停止しているとみた。また『人類史哲学考』(1791)で「人種」という語を批判しヨーロッパ人ニグロを悪として扱うのと同じように、ニグロヨーロッパ人白い悪魔侮蔑する権利有すしながらニグロヨーロッパ人のために何一つ発明しなかったとも述べている。また、人種的にドイツ人ペルシア人近く、またインド人は自然の徳、穏やかさ礼儀正しさ優美さ持っているが、地上の民族すべてをヘブライ人末裔にするような話はもう沢山であり、人類最初に居を定めたのはアジア原初の山であるとした。一方で同書第四部では、古代ユダヤ崩壊してキリスト教世界優位に立たせようと決めたのは神の摂理であるとした。ヘルダーショーペンハウアー影響与えたブルーメンバッハ(1752-1840)は白人を最も美しい人種であり、最も美しい人種のグルジア人のいるコーカサス山に因みコーカソイドという名を白人与え、白い色はもともとの人類肌の色であるが、容易に黒っぽく退化するとした アウグスト・ルートヴィッヒ・フォン・シュレーツァーセム系言語ヤペテ言語(アルメニア語ペルシア語)との区別提案しヤペテヨーロッパ白人先祖とした。 1788年イギリス言語学者ウィリアム・ジョーンズインドサンスクリットギリシャ語ラテン語ゴート語ケルト語の強い近親性を発見してインド・ヨーロッパ語族発見された。 社会主義者サン=シモン1803年ニグロ体質ゆえに平等に教育してヨーロッパ人の高い知性達しないとした。ヨーロッパ人アベルの子孫で、有色人種カインの末裔であるとし、アフリカ人残忍で、アジア人怠惰であるとした。 ドイツにおけるインド趣味シュレーゲル兄弟影響大きかったアウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲル1804年東洋人類再生起こった地域だとすればドイツヨーロッパ東洋みなされなければならないと書いた。アウグストの弟フリードリヒモーゼス・メンデルスゾーンの娘ドロテーア結婚しユダヤ人解放のために闘った進歩派であったが「すべてがインド端を発している」と述べエジプト文明インド使節によって形成されたし、エジプトユダヤの地に文明的植民地築いたが、ユダヤ人インド真理不完全に吸収したとした。フリードリヒ1808年著書インド人言語英知』で、偉大なインド人がいかにスカンジナビア達したのかと述べゲルマン人との関連示唆し1819年には「アーリア人」を種族の意味用い語根の「アリ」をゲルマン語の「エール(名誉)」と結びつけた。なお、ヤーコプ・グリムヨーロッパ人のすべては太古アジアから移住してきたとしたが「アーリア人」という用語は使っていない。 生物学者ラマルク1809年著作動物哲学』で、改良され人種が他の人種支配しこの人種に適したすべての地を占拠する述べた。ここでは白人種名指したわけではなかったが、当時フランス膨張関連した発言であった博物学者キュヴィエは『動物界』(1817年)で、ニグロ人種は近く野蛮であるとし、文明進歩コーカサス人種特性であるとした。 1810年考古学者クロイツァーユダヤ教以前原始バラモン教真の自然宗教であり、アブラハムブラフマーサラはサラスワディで、両者ともバラモンであったとした。 1811年自然哲学者ローレンツ・オーケン黒人種は白人種輝く人間、モンゴル人空気アメリカインディアン対応するとした。自然哲学者カール・グスタフ・カルス1849年から1861年にかけての著作で、黄色人種夜明け人種胃の人種白人種は昼の人種で脳の人種赤色人種夕暮れ人種肺の人種黒人種は夜の人種生殖の人種とした。 J.C.プリチャードは『人類自然史』(1813-47)で人類単一起源説唱えアダムとイヴ黒人であったとした。また、ハム人種エジプト)、セム人種(シリアアラブ)、ヤペテ=アーリア人種という三分類を行った。ただし、プリチャードヤペテ=アーリア人種卓越性付与したわけではなくセム人種を第一とした。1816年トーマス・ヤングが「インド-ヨーロッパ人」という用語を作った人種決定論人種主義フランスなどで盛んになったのに対してイギリスではJ.S.ミルバックルのように人種文化気候生活様式多様性帰着させる環境主義説かれていた。19世紀前半イギリスでは聖書崇拝生気論強くフランス流の唯物論遺伝説には反感持たれ無神論であると批判された。解剖学者ウィリアム・ローレンス準男爵1816年精神を脳の機能とした講義出版すると、生気論のジョン・アバーネシーは唯物論批判したローレンスの『人類自然史』(1819)は人間と動物における知的性質決定する法則同一であるとしたことや遺伝についての記述無神論批判された。 1823年東洋学者クラプロートが「インドーゲルマン人」という用語を作り、たちまち普及した19世紀後半までのドイツでは「アーリア人」よりも「ゲルマン」「インド=ゲルマン」という用語がよく使われた。 1824年,シュレーゲル影響受けた改宗ユダヤ人エクシュタイン男爵王党派雑誌Le Catholique』を創刊しヨーロッパは血と文化ゲルマン人負っており、インド東洋神秘について宣伝しユゴーラマルティーヌ、ラムネー、歴史家ミシュレティエリアンリ・マルタンなどに影響与えハイネはエクシュタインを「ブッダ男爵」と呼んだユゴードイツをひとつのインド呼んだ博物学者ボリ・ド・サン=ヴァンサン1827年人類動物学研究』で最高の人種はヤペテ人種白人種)、第二アダム人種アラブ)、最低はオーストラリア人種であるとした。 社会学者オーギュスト・コント白人種人類選良であり、特権与えられており、西欧白人歴史の研究だけが利益になるため、オリエント研究は無駄であるとした。 博物学者カトルファージュは奴隷制反対論者だったが1842年アメリカ合衆国へ旅行直後ニグロは、知性形成途中で止まった白人であり、知的な畸型であるとし、黒人にあっては精神高貴な産物動物的な機能にとって替わられているとした。

※この「インドと「アーリア人」の発見」の解説は、「反ユダヤ主義」の解説の一部です。
「インドと「アーリア人」の発見」を含む「反ユダヤ主義」の記事については、「反ユダヤ主義」の概要を参照ください。

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