インドと「アーリア人」の発見
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「反ユダヤ主義」の記事における「インドと「アーリア人」の発見」の解説
啓蒙思想の進展によって、ユダヤ教とキリスト教的な世界観から徐々に抜け出していくとともに、人類と文明の発祥の土地としてインドが浮上していった。 フランスの東洋学者アンクティル=デュペロン(1731-1805)は「アーリア人」をヘロドトスから取ってペルシア人とメディア人を指すために用いていた。 文化的多元主義のヘルダーは民族の形成には地理的条件や歴史的条件があるため、どのような民族も神に選ばれたということはできないとユダヤ民族の選民思想を否定し、また「自称神の唯一の民」もドイツ人も選民ではないとした。しかしヘルダーはルター派であり、歴史は神によって統制され、文明は東から西へ向かって進展しているので必然的に文明はヨーロッパに集中しているのであり、ヨーロッパは優位にあるとした。またシナ人はユダヤ人のように他民族との混合を免れたために幼いまま停止しているとみた。また『人類史哲学考』(1791)で「人種」という語を批判し、ヨーロッパ人がニグロを悪として扱うのと同じように、ニグロはヨーロッパ人を白い悪魔と侮蔑する権利を有すとしながら、ニグロはヨーロッパ人のために何一つ発明しなかったとも述べている。また、人種的にドイツ人とペルシア人は近く、またインド人は自然の徳、穏やかさ、礼儀正しさ、優美さを持っているが、地上の民族すべてをヘブライ人の末裔にするような話はもう沢山であり、人類が最初に居を定めたのはアジアの原初の山であるとした。一方で同書第四部では、古代ユダヤが崩壊して、キリスト教世界を優位に立たせようと決めたのは神の摂理であるとした。ヘルダーはショーペンハウアーに影響を与えた。 ブルーメンバッハ(1752-1840)は白人を最も美しい人種であり、最も美しい人種のグルジア人のいるコーカサス山に因みコーカソイドという名を白人に与え、白い色はもともとの人類の肌の色であるが、容易に黒っぽく退化するとした アウグスト・ルートヴィッヒ・フォン・シュレーツァーはセム系言語とヤペテ系言語(アルメニア語やペルシア語)との区別を提案し、ヤペテはヨーロッパの白人の先祖とした。 1788年、イギリスの言語学者ウィリアム・ジョーンズはインドのサンスクリットとギリシャ語、ラテン語、ゴート語、ケルト語の強い近親性を発見して、インド・ヨーロッパ語族が発見された。 社会主義者サン=シモンは1803年、ニグロは体質ゆえに平等に教育してもヨーロッパ人の高い知性に達しないとした。ヨーロッパ人はアベルの子孫で、有色人種はカインの末裔であるとし、アフリカ人は残忍で、アジア人は怠惰であるとした。 ドイツにおけるインド趣味はシュレーゲル兄弟の影響が大きかった。アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲルは1804年「東洋が人類の再生が起こった地域だとすれば、ドイツはヨーロッパの東洋とみなされなければならない」と書いた。アウグストの弟フリードリヒはモーゼス・メンデルスゾーンの娘ドロテーアと結婚し、ユダヤ人解放のために闘った進歩派であったが「すべてがインドに端を発している」と述べ、エジプト文明はインドの使節によって形成されたし、エジプトはユダヤの地に文明的な植民地を築いたが、ユダヤ人はインドの真理を不完全に吸収したとした。フリードリヒは1808年の著書『インド人の言語と英知』で、偉大なインド人がいかにスカンジナビアに達したのかと述べ、ゲルマン人との関連を示唆し、1819年には「アーリア人」を種族の意味で用い、語根の「アリ」をゲルマン語の「エール(名誉)」と結びつけた。なお、ヤーコプ・グリムもヨーロッパ人のすべては太古にアジアから移住してきたとしたが「アーリア人」という用語は使っていない。 生物学者ラマルクは1809年の著作『動物哲学』で、改良された人種が他の人種を支配し、この人種に適したすべての地を占拠すると述べた。ここでは白人種を名指したわけではなかったが、当時のフランスの膨張と関連した発言であった。博物学者キュヴィエは『動物界』(1817年)で、ニグロ人種は猿に近く野蛮であるとし、文明の進歩はコーカサス人種の特性であるとした。 1810年、考古学者クロイツァーはユダヤ教以前の原始バラモン教が真の自然宗教であり、アブラハムはブラフマー、サラはサラスワディで、両者ともバラモンであったとした。 1811年、自然哲学者ローレンツ・オーケンは黒人種は猿、白人種は輝く人間、モンゴル人は空気、アメリカインディアンは水に対応するとした。自然哲学者カール・グスタフ・カルスは1849年から1861年にかけての著作で、黄色人種は夜明けの人種で胃の人種、白人種は昼の人種で脳の人種、赤色人種は夕暮れの人種で肺の人種、黒人種は夜の人種で生殖の人種とした。 J.C.プリチャードは『人類の自然史』(1813-47)で人類単一起源説を唱え、アダムとイヴは黒人であったとした。また、ハム人種(エジプト)、セム人種(シリア、アラブ)、ヤペテ=アーリア人種という三分類を行った。ただし、プリチャードはヤペテ=アーリア人種に卓越性を付与したわけではなく、セム人種を第一とした。1816年、トーマス・ヤングが「インド-ヨーロッパ人」という用語を作った。 人種決定論や人種主義がフランスなどで盛んになったのに対してイギリスではJ.S.ミルやバックルのように人種や文化を気候や生活様式の多様性に帰着させる環境主義が説かれていた。19世紀前半イギリスでは聖書崇拝や生気論が強く、フランス流の唯物論や遺伝説には反感が持たれ、無神論であると批判された。解剖学者ウィリアム・ローレンス準男爵が1816年に精神を脳の機能とした講義を出版すると、生気論のジョン・アバーネシーは唯物論と批判した。ローレンスの『人類の自然史』(1819)は人間と動物における知的性質を決定する法則が同一であるとしたことや遺伝についての記述も無神論と批判された。 1823年、東洋学者クラプロートが「インドーゲルマン人」という用語を作り、たちまち普及した。19世紀後半までのドイツでは「アーリア人」よりも「ゲルマン」「インド=ゲルマン」という用語がよく使われた。 1824年,シュレーゲルに影響を受けた改宗ユダヤ人エクシュタイン男爵が王党派雑誌『Le Catholique』を創刊し、ヨーロッパは血と文化をゲルマン人に負っており、インドと東洋の神秘について宣伝し、ユゴー、ラマルティーヌ、ラムネー、歴史家ミシュレ、ティエリ、アンリ・マルタンなどに影響を与え、ハイネはエクシュタインを「ブッダ男爵」と呼んだ。ユゴーはドイツをひとつのインドと呼んだ。 博物学者ボリ・ド・サン=ヴァンサンは1827年『人類の動物学的研究』で最高の人種はヤペテ人種(白人種)、第二はアダム人種(アラブ)、最低はオーストラリア人種であるとした。 社会学者オーギュスト・コントは白人種は人類の選良であり、特権を与えられており、西欧白人の歴史の研究だけが利益になるため、オリエント研究は無駄であるとした。 博物学者カトルファージュは奴隷制反対論者だったが1842年にアメリカ合衆国へ旅行直後、ニグロは、知性の形成が途中で止まった白人であり、知的な畸型であるとし、黒人にあっては精神の高貴な産物が動物的な機能にとって替わられているとした。
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